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裸足の花嫁~日陰の王女は愛に惑う~【前編】

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 幾ら何でも遅すぎだ。女性にとって祝言にせよ、良人と迎える初めての夜せよ、大切なものに相違ない。どちらも、一生に一度きりのものだ。良い方に考えれば、妻がこれから迎える初夜に備えて念入りに支度をしているのかもしれないし、逆だとすれば少しでも床入りの時間を引き延ばそうとしているのかもしれない。
 あまり考えたくはないが、どうやら後者の方が可能性としては高いのではないかと思ってしまうのは残念なことだ。
 現に、祝言後、王女は慣例を破って花嫁衣装を早く着替えたいのだと訴えた。
 通常、嘉礼を終えた新婚夫婦は婚礼衣装のまま初夜を迎えるものだ。新婦の簪を外し、帯を解くのは新郎の務めである。
 しかし、王女は衣装や髢(かもじ)が重たく疲れたため、一刻も早く脱いで楽になりたいのだと言った。お付きの女官を通してそれを聞いた時、チュソンは快く許した。残念だという想いがなかったわけではない。
 が、男と異なり、女人の方が髢や衣装が重く負担になるだろうというのは理解できた。それでなくとも、新婦にとっては緊張する一日だったはずだ。朝早くから起床し、化粧や着替えと息をつく暇もなかっただろう。
 疲れたと訴えるからには、今夜は一人でゆっくりと寝るようにと言うべきだったのかもしれない。だが、流石にそこまで物判りの良い良人にはなれなかった。
 恋い焦がれた初恋の女人と漸く晴れて迎えた初めての夜なのだ。王女が疲れているなら、今夜、無理強いする気はなかった。具合が悪いと訴える妻に襲いかかるほど、鬼畜ではないつもりだ。
 王女はチュソンにとって、永遠に憧れの女性だ。生涯の想い人と言って良い。八歳で出逢って以来、彼女の存在はずっとチュソンの心に強烈に焼き付いていた。探し求めた初恋の少女と結ばれるとは、自分ほど幸運な男はこの国を探してもなかなかおるまい。
 自分たちはまだ若い。焦らずとも、時間はまだまだある。今夜は祝言を終えた記念すべき夜ゆえ、たとえ夫婦の営みは叶わずとも、枕を並べて眠れれば十分だと考えている。
 それにしても、遅すぎはすまいか。四半刻前、既に一度、人をやって妻に早く来るようにと伝えている。あまりに催促ばかりするのも飢えた獣のようで浅ましく、チュソンはひたすら来ない妻を待ち続けていた。
 もしや、王女はこの期に及んで逃げ出したのだろうか。チュソンの不安はいや増した。
 婚儀にすら大幅に遅れてきたことを思えば、初夜を嫌がって逃げ出したとしても何ら不思議はない。
 あまり気は進まないが、一度、こちらから訪ねてみた方が良いかもしれない。チュソンは重い腰を上げた。
 そのときだった。コトリと夜のしじまを小さく震わせ寝室の扉が細く開いた。央明翁主が扉の向こうに立っている。
 チュソンは自分から両開きの扉を大きく開けた。
「あなたがあまりに来ないので、待っている中に朝が来るのではないかと思った」
 冗談のつもりで言ったのだが、王女は真顔で頭を下げた。
「お待たせして、申し訳ありません、旦那さま」
 チュソンは眼を見開いた。今、王女は何と言った?
「済まないが、もう一度、言ってみてくれないか」
 王女が怪訝そうな表情で見つめる。
「お待たせしてー」
 言いかけた彼女を制し、チュソンは笑った。
「いや、そうではない。最後に私を呼んだだろう?」
 王女は首を傾げつつも素直に言った。
「ー旦那さま」
 チュソンはいきなり大声を出した。
「そう、それだ!」
 彼は自らを恥じるように言った。
「みっともないが、そなたに旦那さまと呼ばれたのが初めてなので、感動してしまった」
 王女の静まり返った面にかすかな笑みが浮かび上がった。
「旦那さまは面白いことをおっしゃいますのね」
「そうか? これでは新婚早々、妻に腑抜けているうつけと呼ばれても仕方ないな」
 チュソンは悪びれもせずに言い、手招きした。
「こんな場所で立ち話もなんだ、中に入りなさい」
 王女が寝室に脚を踏み入れると、チュソンは室を大股で横切り回廊に立った。庭に面した扉は開けたままにしている。
 回廊に佇めば、今を盛りと満開の白藤が一望に見渡せる。清(さや)かな月明かりが藤棚をズラリと飾る白藤を淡い闇に浮かび上がらせている。純白の花が夜闇の中、ほのかに発光しているようで、なかなかの眺めだ。
 ややあって、人の気配がした。王女が後ろに立っているのが判る。
 チュソンは振り返らず、正面を見たままで言った。
「何かー不思議な心持ちです」
 王女の細い声が聞こえた。
「何が不思議なのでしょう? 夜に見る藤が不思議なのですか」
 チュソンの顔にごく自然に微笑が浮かんだ。
「うーん。難しい問いですね。あなたの言うように夜の藤は真昼に見る清楚な姿とはまた違って、妖艶だ。確かに不思議といえば不思議ではありますが、私としては、こうして今、あなたと一緒に藤を見ていることそのものが不思議に思えてなりません」
 互いに八歳の時、下町で出逢った忘れられない少女。あの娘と今、夫婦となって彼女の大好きな白藤を眺めている。あまりにも幸福すぎて、これは夢なのではないかと思ってしまいそうだ。
「私は朝鮮一、幸せな男でしょうね。あなたが側にいるのは紛れもない現実なのに、これは目覚めれば覚める夢ではないかと疑ってみたくなります」
 何気なく口にした言葉だった。しかし、刹那、王女がヒュッと息を呑むのが判った。
 夜風に紛れるような、か細い声音が呟いた。
「真にすべてが夢なのやもしれませんよ」
 チュソンは訝しみながらも、自らの頬をつねった。
「しかし、こうすると痛みを感じますから、やはり夢ではないのでしょう」
 いつしか王女も傍らに並んでいた。彼女もまた夜の闇に妖しく浮かぶ白藤を見上げている。
「とても美しい。あなたと花を愛でるこの時間が永遠に続けば良いのに」
 チュソンは改めて王女を見た。純白の夜着を纏った彼女は文句なく美しい。夜着は身体の線が透けそうなほど薄く、チュソンは慌てて視線を逸らした。
 ただ、彼女の顔色の悪さは気になった。元々白い雪肌ではあるが、今夜は白いどころではなく蒼褪めている。淡い紅を塗った唇がかすかに震えていた。
「そろそろ中に戻りましょうか。五月とはいえ、流石に夜は冷える」
 チュソンは手を差し伸べ、王女の細い手を掴んだ。まるで氷のように冷たい。
「こんなに冷えて。申し訳ない。自分のことばかり考えすぎていました」
 チュソンが言い終わる前に、王女はサッと彼の手から自分の手を引き抜いた。まるで汚いものに触れられたかのような仕草に、少しだけ傷つく。
 室内には小卓が用意され、酒肴が載っていた。チュソンは王女に盃を渡し、酒器を取り上げて酒を注いだ。次いで、自分の盃にも手酌で注ぐ。
 王女は黙って見ている。一般家庭で育った娘であれば、ここはすぐに自分が良人の盃に注ぐと言うところだろうが、王女であれば気が利かずとも致し方ない。
 おいおいに教えてゆけば良い。チュソンは盃を掲げた。
「我らの前途を祝して、記念の夜に」
 だが、王女は盃を手にしたまま、彼を無表情に見つめているだけだ。
 チュソンは見ないふりをして、顔を背けて盃を干した。相手からは見えないように酒を飲むのが礼儀とされる。