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父のメッセージ

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その日は、朝から予想していた通りに仕事が終わらず、少しだけ残業をしてから会社を出た。時刻は午後6時を過ぎていて、道の前方には多くの人が行き交い、薄暗くなり始めた街全体がざわめいているようだった。
私は、会社で手掛けている最中のプロジェクトのことを考えながら歩いた。20歳台から30歳台の独身女性をメインターゲットとした新製品のプロモーションに関するプロジェクトで、このターゲットと条件が一致する私が、まだ入社4年目にもかかわらず、プロジェクトメンバーに選ばれたのだった。初めて参加する全社横断型のプロジェクトの仕事は、さまざまな部門の人とも交流できて面白かったし、自分が参加して考えたさまざまな販促のプロモ―ションや販売政策が全社を挙げて実行されると考えると、大きなやりがいがあった。しかしその反面、所属部署の担当業務との兼ね合いが難しく、仕事の絶対量の増加もあり、悩むことも多かった。
プロジェクトの次回の定例会までに作らなければならない資料について考えながら、私は駅へと続く道を、足早に歩いた。
突然、前方で大きな悲鳴が上がった。一瞬遅れてどよめきが起こり、前方にいた人たちが、辺りに散らばって走り出すのが見えた。私の両脇を何人もの人が反対方向へと走り去って行く。
私は何が起こったのか分からず、その場に立ち止まった。10数メートルほど先の、人たちが散らばって無人になった空間の真ん中に、一人の男が立っていた。男の足元には、スーツを着た男の人が俯せに丸まって蹲っていた。よく見ると、立っている男は右手に何かを握りしめていて、その何かの先からは滴が滴り落ちている。
男と目が合った。男の目には、一切の感情が無かった。私と目が合っているのに、私を見ているのではなく、私の背後のずっと遠くを見ているようでもあった。
男は私に向ってゆっくりと歩き出した。男が歩き出して分かった。男が右手に握りしめているのは、ナイフか包丁のような刃物だった。そして、その先端から滴り落ちているのは、誰かの血だった。もちろん、道路に蹲っていたスーツの男の人の血だろう。
逃げなきゃ、と思った。しかし、体が凍り付いたように、動かなかった。足が竦み膝が震え、立っているのがやっとだった。私は、恐怖で膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、辛うじて立っている状態だった。まるで夢を見ているようだと思った。夢の中で何かに追いかけられ、逃げようと懸命に走るのだが、全然足が出ない、前に進めない、そんな感覚だった。
男はもう私の数メートル前まで来ていた。男はずっと私から目をそらさない。何の感情も浮かばないガラス玉のような目で、私をずっと見続けながらゆっくりと私に近づいて来る。
そのとき、突然何かが激しく壊れるような大きな音と共に、私の前から男の姿が消えていた。
何が起こったのか分からなくて一瞬呆然としたが、すぐに私の目の前の道路に、今まで無かった大きな何かがあるのに気が付いた。よく見ると、それはビルの屋上の壁に取り付けられているネオン看板だった。私はすぐ傍らのビルを見上げた。その5階建ての雑居ビルの最上階の壁に、いくつものネオン看板が並んで取り付けられているけれど、一か所だけ、何もない空間になっていた。私は悟った。ビルの最上階のネオン看板が、目の前の男の真上に落ちて来て、男を圧し潰したのだ。
道路に落ちたネオン看板は、表面のアクリル板が粉々に砕け散り、中の蛍光管が剥き出しになっていた。その蛍光管の隙間から、倒れた男が呻きながら僅かに手足を動かしてもがいているのが見えた。
気が付くと、周囲に野次馬が集まり始めていた。なんとなく野次馬の中に父がいるような気がして、周囲を見回した。もちろん、父はいなかった。それでも、いつもの癖で、つい小さな声で呟いた。
「お父さん、ありがとう。」
私は、道路に落ちて砕け散ったネオン看板をよけて、駅に向かって歩き出した。家に帰って母が作った晩御飯が食べたかった。今夜のおかずは何だろう。それが気になった。



   - 完 -
作品名:父のメッセージ 作家名:sirius2014