因果応報の記憶喪失
「じゃあ、なぜあなたは仲間である、実行犯の看護師を売るようなマネをしているんですか?」
と桜井刑事が訊くと、
「私たちは、決してお互いを裏切ったなどとは思っていません。あくまでも研究のために自部を犠牲にすることが素晴らしいと思っています。だから、彼女もきっと後悔はしないと思います」
という言葉を訊いて、桜井刑事も、浅川刑事も、何とも言えない気分の悪さを感じていた。
彼女たちの気持ちはよく分かる。しかし分かるだけに敢えて、ひどいことをいうのも仕方のないことだ。
「これはどう考えても、マインドコントロールです。犯罪を犯す宗教と同じ手口です。そんなことは法治国家の日本では決して許されない。皆がやっているのは、私刑です」
と浅川刑事がいうと、それを聞いた弘子は、
「そんなことは百も承知ですよ。でも警察って結局組織の中でしか動くことのできないものじゃないですか。何かが起こってから出ないと決して動かない。それは、警察だけじゃない。この国家、ひいては全世界がそうなんだ。国家主義が違ったって、結局行き着く先は、末端の市民がすべて犠牲になるんですよ、必ず、一部の特権階級が得をするようにしかできていない。逆にいえば、そういう体制でないと、たくさんの人をまとめていくことなんかできっこないんですよね? しかも、そんな社会だから、国家の中に、似たような組織が無数にできてしまう、公式非公式を別にしてですね。公式だったら、世論が攻撃できるでしょうが、非公式だと無法地帯です。それぞれの団体の潰しあいにしかならない。そういう意味では私たちがやっていることは警察から見れば、組織や派閥の潰しあいにしか見えないでしょう。でも、結局正義なんてこの世には存在しないんですよ。勧善懲悪なんて夢のまた夢。そんなものを目指すから、結局自分が苦しむことになる。損をする。そして社会からはじかれる。立場的にはじかれたり精神を病んでしまったりですね。そんな私たちを救ってくれたのが、博士なんですよ。博士はこの街の英雄であり、カリスマなんです。麻薬の組織を戦う必要がある。そのために、あの社長の殺害はその第一歩だったんですよ」
弘子は、何かに取り憑かれたかのように、まくし立てた。
さらに弘子は続ける。
「せっかく今までうまくいってきたと思っていたのに、桜井さん、あなたが出てきたことで、何もかも狂ってしまった。私たちは、もうここまでだって思っていますが、別に桜井さんが悪いわけではない。だから、今あなたが苦しむことはない。でも、すぐにあなたはどうしようもないアリ地獄に足を突っ込むことになるでしょうから、その時のあなたを本当は見てみたい。あなたには、私たちのように記憶喪失になったり、意識を失ったりという力がありませんからね。まともに、精神の葛藤に立ち向かうことになるんです。ええ、そうなんですよ、私たちの記憶喪失であったり、意識がなくなるというのは、その精神的な意識は罪の呵責を和らげたり、自分中の葛藤を受け入れるだけの力になっていたんです。だから、博士は絶対に必要な人だったんです。あなた方にはまるで悪徳宗教団体のように見えるかも知れませんがね。そういう意味で桜井さん、あなたには、中学時代からの罪がある。それを聡子さんと一緒に味わってくださいね」
と言って、大きな声で笑いだした。
その声は部屋全体に広がり、遠慮の何もないその声は、いかにも精神異常者を思わせた。
二人がその笑い声に交じって、女性の大きな悲鳴が聞こえてきたのを感じた時、我に返るというよりも、これ以上の不気味な声を、今までに聞いたことがなかったし、これ以降にもないだろうと思わせるほど、背筋に恐怖が宿ったのだ。
「どうしたんだ?」
と急いで、表に出た二人は、声のする方に向かって走り出した。
そこには数人の看護師と患者による人だかりができていたが、気が付くとそこは、博士の研究室の前だった。
凍り付いているかのような野次馬をかき分けで中に入ると、そこには、ナイフで刺されて、断末魔の表情を浮かべている博士が倒れていて、虫の息状態だった。そして、その正面には真っ赤に染まった返り血を浴び、手には凶器と思しきナイフを握りしめている、聡子がいた。
急いで、ナイフを取り上げた桜井だったが、すぐに後悔した。
今まさに人を差した聡子のその顔は、狂気に満ちていて、まったく後悔などしていないかのような不気味な顔は、一番見たくないと思った顔だった。
「このことだったのか……」
と一言桜井は口にして、立っているのがやっとである自分に気づいていた……。
桜井刑事が、それ以降精神に異常をきたして、そのまま入院したのだが、医者の見たたでは、
「このままでは、以前の桜井さんに戻ることはないでしょう。警察のお仕事に戻ることも難しいと思います。実に皮肉なことです。これを元に戻すことができる人がいるとすれば、川越博士だけだったに違いないのに……」
と言って、嘆いていた。
「因果応報、まさにその通りだな」
とどこかからそんな声が聞こえてきた。
浅川刑事は、これまでにも、これからも、こんな事件は二度と嫌だと思っていたのだった……。
( 完 )
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