SWING
4月、海にて。
四月の海は、ぼんやりと青く、鈍く光る白い波を、ただただ砂浜に送り出し続けていた。名古屋市の郊外に住む僕は、地元の町でも嫌というほど自然には囲まれて生活しているのだけれど、やはり、海というものは格別だ。忘れかけていた少年らしい喜怒哀楽も、潮風と波の音に喚起され、新学期が始まって以来抜け殻だった僕の心にもようやく、やわらかい春の日差しが届いた気がする。
季節外れの海水浴場にも関わらず、海岸には多くの人があふれていた。舗装された道路から海岸線が直結し、緩やかな曲線を描いたこのビーチでは、それぞれが思い思いの時間を過ごしているようだった。今年初めて着た半袖はまだ、二の腕のあたりでぎこちなく、居心地悪そうにしていたが、僕も、愛犬を連れてその一員になることで、世界はうまく回っていくような気がしていた。
ただし、どんなに平和な日々を望んでいたって、阻止できないのはハプニングだ。突然、僕の元に、リードから放たれた大型の猛犬が駆け寄ってきた。慌てる僕。吠え立てる愛犬。望むか望まないかはさておき、僕は、けたたましい鳴き声から、彼女の声を思い出していた。
「ねえ、奏汰(かなた)って、あれなの?」
あれだよ、あれ!ねぇ、奏汰!
……まったく、話の要旨を捉えないまましゃべり出すなよ。しかも、声が大きいんだ。彩芽よ。うちの犬みたいだな、本当に。僕は心の中で盛大に、かつ、冷静にツッコミを入れる。そうしている間にも、彼女は一人で混乱して、どんどん身振り手振りだけが大きくなっていくのだ。そして、ようやく彼女から絞り出された言葉が、
「左利き?」
だったりするので、僕は、数学の問題集を解いていた右手の中に納まっている白いシャープペンシルを見つめてしまう。見ればわかるだろう。大体そんなことを聞いて、何の意味があるというのだろう。何かのプロジェクトのためのアンケートなのか。左利きには秘めたる特殊能力があって……いや、そんなファンタジーな要素がこの世に存在するはずはない。あるいは……次の瞬間、僕の思考は吹っ飛ぶ。
「右利きだ!」
フェルマーの定理でも解いたかのような歓喜に満ちた声で、彼女が叫んだからだ。僕は、ちりぢりになった思考の欠片をかき集める。彩芽よ、人類の九割が右利きだって知ってるか?当てずっぽうに「右利き」って言ったって、九割は正解するんだぞ?なにがそんなに彼女の感情を高ぶらせているのだろう。さっぱりわからない。いや、落ち着け。やはり、左利きには何かしらの特殊能力があるのか。質問の意図が知りたい。質問の意図が……ひょっとして、あれか。ルーク・スカイウォーカーもアナキン・スカイウォーカーも両方とも右手をライトセーバーで切られていることが……
「あ、数学のワーク!やらなきゃ!」
……僕は、マスター・ヨーダの教えを身に染みて実感していた。『考えるな、感じろ』。ジェダイの教えが、わりと現実で、しかも、僕と彩芽っていう相反性を具現化したような関係の中にも生きるってことが、ある意味で新鮮ではあった。同時に、僕の思考はてんで無意味で、彼女の感情は並大抵の絶叫マシンでは形容できないような曲線を描いていることも証明された。
走り去る彼女を目で追いながら、さらに僕は気づいてしまう。自分が一言も発していないことに。彼女が一方的に言葉のマシンガンをぶっ放してきたのだから、やむを得ない状況ではあった。そうだ、しょうがないじゃないか。僕は無視したわけではないのだ。僕に非があるわけではないのだ。見ればわかる当たり前の質問を彼女がしてきて、だから答える必要もなかった。「Q.E.D.:僕は口を開く必要はなかった。」でも、これは一体、誰に対しての言い訳なんだろう。僕は、何を証明したかったのだろう。教室内の喧騒(けんそう)が、他人行儀な顔で切り立ての襟足(えりあし)をなでていった。
愛犬の冷たい舌が、僕の利き手をなめる。僕らに走り寄ってきた例の犬は、すんでのところで異国出身らしき飼い主に取り押さえられていた。彼は、サングラスの向こうで軽く微笑んで、「Sorry.」と一言つぶやく。彼が去って行くのを見送りながら、僕はまた、自分が言葉を発していないことに気づいてしまう。大丈夫です、とか、元気な犬ですね、とか、All right.とか、何かあったはずだ。何かあったはずなのに……
「奏汰、帰るって。」
弟が僕を呼ぶ声がして、僕と愛犬は、足に絡む細かい砂を名残惜しくゆっくり踏みしめながら歩いた。
熱い車の助手席のシートに座り、FMラジオにチューナーを合わせる。先週とそんなに変わらないヒットチャートを聞きながら、ぼんやり彩芽のことを考える。
僕と彼女は「平行線をたどる」どころか、完全なる異次元の世界で存在しているようだった。ただ、と僕は彩芽のことばかり考えがちな自分にふと気づき、冷静に、まず、冷えたロスバッハ―で喉を潤し、仕切り直す。ただ、彼女に対してだけではない。僕は、最近、すべての物事に、そういった隔絶した何かを感じることが増えた。右手、左手、数学のワーク……。大体同じ体の作りで、みんなだいたい同じものを持っているのに、自分と他人、自分と世界の間に、目には見えない何かを感じるのだ。そして、いよいよ「自分」の中にもそれを感じるようになり、「僕」なのか「俺」なのかも迷っていたら、次第に無口になっていた。ただ、それと逆行するように、内なる自分はどんどん多弁になっている気がしする。わけがわからない。ひょっとしたら先人たちは、これを「フォース」とか「ATフィールド」とか呼んだのかもしれない。実は、僕の左手にも、隠された何かが……
またしても僕が内なる自分の思考の渦に飲み込まれそうになったとき、アクセルが勢いよく踏まれ、脳内の声にならない声は、慣性の法則によって波打ち際に置き去りになった。そして、
「Stay tuned!」
ラジオの女性DJが、随分軽やかな高い声でそう言うや否や、勢いよくジングルが流れ、他愛もない一日の終わりにふさわしく、聞き古したギターのアルペジオのイントロが流れ出したんだ。
四月の海は、ぼんやりと青く、鈍く光る白い波を、ただただ砂浜に送り出し続けていた。名古屋市の郊外に住む僕は、地元の町でも嫌というほど自然には囲まれて生活しているのだけれど、やはり、海というものは格別だ。忘れかけていた少年らしい喜怒哀楽も、潮風と波の音に喚起され、新学期が始まって以来抜け殻だった僕の心にもようやく、やわらかい春の日差しが届いた気がする。
季節外れの海水浴場にも関わらず、海岸には多くの人があふれていた。舗装された道路から海岸線が直結し、緩やかな曲線を描いたこのビーチでは、それぞれが思い思いの時間を過ごしているようだった。今年初めて着た半袖はまだ、二の腕のあたりでぎこちなく、居心地悪そうにしていたが、僕も、愛犬を連れてその一員になることで、世界はうまく回っていくような気がしていた。
ただし、どんなに平和な日々を望んでいたって、阻止できないのはハプニングだ。突然、僕の元に、リードから放たれた大型の猛犬が駆け寄ってきた。慌てる僕。吠え立てる愛犬。望むか望まないかはさておき、僕は、けたたましい鳴き声から、彼女の声を思い出していた。
「ねえ、奏汰(かなた)って、あれなの?」
あれだよ、あれ!ねぇ、奏汰!
……まったく、話の要旨を捉えないまましゃべり出すなよ。しかも、声が大きいんだ。彩芽よ。うちの犬みたいだな、本当に。僕は心の中で盛大に、かつ、冷静にツッコミを入れる。そうしている間にも、彼女は一人で混乱して、どんどん身振り手振りだけが大きくなっていくのだ。そして、ようやく彼女から絞り出された言葉が、
「左利き?」
だったりするので、僕は、数学の問題集を解いていた右手の中に納まっている白いシャープペンシルを見つめてしまう。見ればわかるだろう。大体そんなことを聞いて、何の意味があるというのだろう。何かのプロジェクトのためのアンケートなのか。左利きには秘めたる特殊能力があって……いや、そんなファンタジーな要素がこの世に存在するはずはない。あるいは……次の瞬間、僕の思考は吹っ飛ぶ。
「右利きだ!」
フェルマーの定理でも解いたかのような歓喜に満ちた声で、彼女が叫んだからだ。僕は、ちりぢりになった思考の欠片をかき集める。彩芽よ、人類の九割が右利きだって知ってるか?当てずっぽうに「右利き」って言ったって、九割は正解するんだぞ?なにがそんなに彼女の感情を高ぶらせているのだろう。さっぱりわからない。いや、落ち着け。やはり、左利きには何かしらの特殊能力があるのか。質問の意図が知りたい。質問の意図が……ひょっとして、あれか。ルーク・スカイウォーカーもアナキン・スカイウォーカーも両方とも右手をライトセーバーで切られていることが……
「あ、数学のワーク!やらなきゃ!」
……僕は、マスター・ヨーダの教えを身に染みて実感していた。『考えるな、感じろ』。ジェダイの教えが、わりと現実で、しかも、僕と彩芽っていう相反性を具現化したような関係の中にも生きるってことが、ある意味で新鮮ではあった。同時に、僕の思考はてんで無意味で、彼女の感情は並大抵の絶叫マシンでは形容できないような曲線を描いていることも証明された。
走り去る彼女を目で追いながら、さらに僕は気づいてしまう。自分が一言も発していないことに。彼女が一方的に言葉のマシンガンをぶっ放してきたのだから、やむを得ない状況ではあった。そうだ、しょうがないじゃないか。僕は無視したわけではないのだ。僕に非があるわけではないのだ。見ればわかる当たり前の質問を彼女がしてきて、だから答える必要もなかった。「Q.E.D.:僕は口を開く必要はなかった。」でも、これは一体、誰に対しての言い訳なんだろう。僕は、何を証明したかったのだろう。教室内の喧騒(けんそう)が、他人行儀な顔で切り立ての襟足(えりあし)をなでていった。
愛犬の冷たい舌が、僕の利き手をなめる。僕らに走り寄ってきた例の犬は、すんでのところで異国出身らしき飼い主に取り押さえられていた。彼は、サングラスの向こうで軽く微笑んで、「Sorry.」と一言つぶやく。彼が去って行くのを見送りながら、僕はまた、自分が言葉を発していないことに気づいてしまう。大丈夫です、とか、元気な犬ですね、とか、All right.とか、何かあったはずだ。何かあったはずなのに……
「奏汰、帰るって。」
弟が僕を呼ぶ声がして、僕と愛犬は、足に絡む細かい砂を名残惜しくゆっくり踏みしめながら歩いた。
熱い車の助手席のシートに座り、FMラジオにチューナーを合わせる。先週とそんなに変わらないヒットチャートを聞きながら、ぼんやり彩芽のことを考える。
僕と彼女は「平行線をたどる」どころか、完全なる異次元の世界で存在しているようだった。ただ、と僕は彩芽のことばかり考えがちな自分にふと気づき、冷静に、まず、冷えたロスバッハ―で喉を潤し、仕切り直す。ただ、彼女に対してだけではない。僕は、最近、すべての物事に、そういった隔絶した何かを感じることが増えた。右手、左手、数学のワーク……。大体同じ体の作りで、みんなだいたい同じものを持っているのに、自分と他人、自分と世界の間に、目には見えない何かを感じるのだ。そして、いよいよ「自分」の中にもそれを感じるようになり、「僕」なのか「俺」なのかも迷っていたら、次第に無口になっていた。ただ、それと逆行するように、内なる自分はどんどん多弁になっている気がしする。わけがわからない。ひょっとしたら先人たちは、これを「フォース」とか「ATフィールド」とか呼んだのかもしれない。実は、僕の左手にも、隠された何かが……
またしても僕が内なる自分の思考の渦に飲み込まれそうになったとき、アクセルが勢いよく踏まれ、脳内の声にならない声は、慣性の法則によって波打ち際に置き去りになった。そして、
「Stay tuned!」
ラジオの女性DJが、随分軽やかな高い声でそう言うや否や、勢いよくジングルが流れ、他愛もない一日の終わりにふさわしく、聞き古したギターのアルペジオのイントロが流れ出したんだ。