最後の「夜間院長」だった
「痛かったら、左手上げて下さい。」と部長は言った。
適切なアドバイスだ。以前、患者さんに、治療中、指を噛まれたことがあるのかもしれない。
それを防ぐため、手を上げさせることにしたのだろう。
左手でなく左足でもよさそうだが、やはり足は危険だ。
患者さんの中には、痛さのあまり、部長を蹴飛ばすこともあったのだろう。
私は右利きなので、痛いときは右手を上げたいと思ったが、右手はちょうど部長の顔にあたる。
痛みのため、我を忘れて、部長の顔をブン殴る可能性がある。その点を考慮して、左手を上げるように指示したものと思う。
私は、少しでも痛かったら、すぐに左手を上げようとチャンスをうかがったが、痛みは起こらなかった。
痛くなかったが、ためしに左手を上げてみようと思った。
しかし、もし嘘だとバレた場合、歯だけでなく、舌も抜かれる可能性もあるので思いとどまった。
小一時間かかって仮歯は出来あがった。
さすがプロだ。噛み合せも悪くない。
部長は、
「あまり堅いものは食べないで下さい。プラスチックなので割れることがありますから」と言った。
〈じゃ、ダイヤモンドやコンクリートは齧らないほうがいいですね〉と言おうと思ったが、バカにされると思ったので、
「お煎餅なんかは齧らないほうがいいでしょうか」というと、
「そうですね」と笑っていた。
作品名:最後の「夜間院長」だった 作家名:ヤブ田玄白