クリスマス・ディナーの惨劇 ~掌編集 今月のイラスト~
もうね、『元はキックボクシングのチャンピオンだった』ってカミングアウトしたなんてもんじゃない、彼の目の前でDQNを叩きのめしちゃったんだから……完膚なきまでに、容赦なく、無慈悲に……どう見ても病院送りになってるし……。
おそるおそる彼の方に振り返ると、目が真ん丸になって、本当に『ポカン』って音がするくらいに口をあんぐり開けてる。
やっぱこんな女はお嫁さんにしたくないよね、夫婦喧嘩する度に病院送りなんてシャレにならないもの……。
『ごめんなさいっ!』
あたし、お店から走り出して行ったわ。
走りながら泣いた、だって、すっごく彼のお嫁さんにして欲しかったし、彼も指輪まで用意してくれてた、なのにあんな大立ち回りを演じちゃったんだもん、もうオシマイよね……彼のことは本当に本当に好きだった、彼と一生一緒に居られたらどんなに幸せだろうって夢見てたのに……。
どこをどう走ったのか憶えてない。
気が付いたら人気のない公園でブランコに揺られてた。
コートをお店に置いたまま飛び出して来ちゃったから、むき出しの背中に夜風が冷たいし、ハンドバックも置きっぱなしにしてきちゃったからあったかい飲み物も買えないし、それどころか家に帰る電車賃もない。
もうね、すっごく惨めで心細かった。
でね、それよりも辛かったのは彼を失ってしまったってこと。
彼とだったらきっとあったかい家庭を築けただろうと思うと悔しい。
彼の赤ちゃんを産んで育てられたらきっと幸せだったろうと思うと淋しい。
彼の両親と家の両親に孫の顔を見せてあげたかったのにと思うと辛い。
試合で思いっきりボコられたことはあるわ、あの時は(やってやる)って闘志が湧いて来たけど、今はもう立ち上がる気力も湧いてこない……。
何てことやっちゃったんだろう……あたし、もう一生ひとりで生きてくんだろうなと思った、現役の頃はキックボクサーになったことを後悔したことなんて一瞬たりともなかったけど、今は後悔でいっぱい……。
俯いて涙をこぼしてると、不意に後ろからコートを着せかけられた。
「やっと見つけた、あちこち探しまわって足が棒になっちゃったよ」
振り向くと彼の柔和な笑顔がそこにあった。
「コートも着ないで走り出して行っちゃったから、風邪ひくんじゃないかって気が気じゃなかったよ」
「あたし……」
「すごかったねぇ、鮮やかな失神KOだった」
「あたしね、キックボクサーだったの……隠すつもりはなかったんだけど、それを話すと男の人はみんな離れて行っちゃったから言い出せなくて……ごめんなさい」
「いいんだ、恥じる様な事じゃないだろ? むしろたくさんの人に勇気を与えて来たんじゃない?」
「でも、こんな狂暴な女、お嫁さんにしたくはないでしょう?」
「ああ、確かに夫婦喧嘩は出来ないね、あいつ、救急車で運ばれて行ったよ」
「でしょうね……」
「でもさ、ようは夫婦喧嘩しなけりゃいいんだよ、今日だって僕が突き飛ばされたのみてキレてくれたんだよね?」
「……うん……」
「だったら、もし夫婦喧嘩してももうちょっと手加減してくれると思うよ、まあ、僕に勝ち目がないことは確かだけど」
彼はそう言いながらポケットからあの指輪を出した。
「これ、もう一度つけてくれる?」
「……いいの?」
「当たり前じゃない、君のために用意して、受け取ってもらえるかドキドキしながら差し出したんだからさ」
「あたしの正体を知っても?」
「美奈代は美奈代さ、キックボクシングのチャンピオンだったってだけで、今は花屋さんの店員で、素敵な女性で、僕の大事な彼女さんだよ、改めてちゃんと言うよ」
彼はあたしの前に回って、膝をついてあたしの左手を取って指輪を通してくれた。
「僕と結婚してください」
「……」
あたし、もう何も言えなかった、ただ彼のぽっちゃりした身体に思い切りしがみつくのが精一杯だった……。
「いらっしゃい!」
「いらっしゃいませ」
「え~と、チンジャオロースー定食ね、それと餃子にビールも貰おうかな」
「はい、ロースー定食に餃子一丁!」
「はいよ」
カウンターから厨房を覗くと彼の丸い顔から笑みがいっぱいこぼれ落ちる。
あたし、この瞬間が大好き。
あたし、今は旦那様のお店で彼が作ったお料理を運んでる。
父の花屋? 今までウエイトレスしてた彼の妹さんが代わりに行ってるわ、交換っこしたわけ、妹さんは『お花のいい香りに包まれて仕事できるなんて幸せ』って言ってるけど、あたしはやっぱちょっと男っぽいのかな、お花の香りよりも中華料理のおいしそうな香りの方が性に合ってるみたい。
でね、あたしのお腹には新しい命が宿って、今はまだちっちゃいけどすくすくと育ってる。
秋ごろには彼とあたしの両親に孫の顔を見せてあげられそう。
女の子だってわかったら、あたしの母親はもういそいそと編み物とか始めてるし、彼のお母さんも涎掛けとか縫い始めてる、両方の父親は名前を『ああでもない、こうでもない』って考え始めてるみたい、意見が合わなくて言い合いになるけどしばらくするとお酒を酌み交わして肩を組んでる。
でもね、女の子とわかって、あたしにはちょっと心配事があるの。
それはね。
キックボクシングやりたいって言い出したらどうしよう……って。
彼は『もしそうなったら全力で応援する』って言ってるけどね、あたしとしてはちょっと微妙だなぁ……。
作品名:クリスマス・ディナーの惨劇 ~掌編集 今月のイラスト~ 作家名:ST