悔季 geki ~violent~
岩壁を背中にして荒い息を繰り返す。この青雲に再び横切る影を期待する。あの季節を未だ待っているのは俺だけではないはず。あれは、二度と来ることのないかもしれない『激げき』だった。
春が恋しい。夏が待ち遠しい。秋が美味しい。冬が好き。
わかりやすい季節の変化を楽しむ人々は、衣替えを意識して、移り変わる風景を意識して、その季節だから楽しめる行事を待ちわびるだろう。
けれど、二度と来ないかもしれない季節は、どの季節を味わっても、俺が求めていたと気づいたものを失った心を埋めてはくれない。
テレビは相変わらず都合のいい情報に区別させられた『季節』というものに、例年と違う天候が発生しただけで異常気象と騒ぎ立てていた。いつもと変わらない内容。情報の自由は作り手のセンスで不安にも前向きにもさせる。けれどさすがに見飽きた。いつも同じ内容だ。
夏に雪が降ってもいいじゃないか。と、自分が童心となればはしゃぐ姿を想像する。もしも地球の氷河期と呼ばれる時代に、現代の科学と材料を持った人間がいたら、氷河期は防げていたか? つまり、成るものは成る、というものだろう。俺たち人間は、あの時期、成ることを怖がって、成らないことを頑張った。
俺の背中にあった小さな羽は、もう形が無く、痣だけとなっている。
あれは三年前の暦では秋に入ったころだった。
◆◆◆
「おい! 危ないぞ!」
「大丈夫! 自分の心配をして!」
岩壁を抱きしめながら、数秒後には自分に言い聞かせたかのように木霊する俺の声。それと重なり婚約者の静恵しずえの言葉に、流れる汗は風に熱を奪われ冷や汗となる。加えて、忘れそうになっていた自分を支える筋肉の傷みを認識させられた。
趣味はロッククライミング。そのように言えば大抵の人間は「へぇ!」と言って数分間の雑談のネタにはなる。俺と静恵が挑戦しているのは頂上へ登る事が一番の目的としているアルパイン・クライミング。
頂上から眺める視覚的な山肌や、到達したという心の達成感は、自分には挑戦した事を成し遂げられるという俺の可能性を高めてくれる。
もう少し、もう少し。
これが地上の平面であれば歩いて二秒程度の距離だろう。けれど、地上より垂直に面している凹凸の少ないこの壁は、指一本の力加減を間違えただけで俺の自信をもぎ取るほどの静かで頑固な面構えをしている。
何度見上げてしまっただろう。
空をほんの一瞬眺めるだけで、ほとんど青にしか見えない白の少ない蒼天は、次に眺めた時にはさっき見た白く細い巻雲の位置が大きく動いていることに、風の強さを教えてくれる。
その風を全身に浴びたい。それが今一番自分を癒せる全ての願い。
願いを込めて再び全身に気勢を呼びかけ、膂力を振り絞った。その瞬間、俺は夜を感じるほど、手元が見えなくなった。
影?
一瞬俺の体は影に覆われた。この青雲の下で壁にしがみつく俺に一瞬の影。サングラスを掛けていた事も重なり、その暗闇に、自分が次にどこへ手足を進ませようか忘れそうになる。
再び蒼天へ向かって顔を上げる。目に入ったそれは、全身へ適切に配置させた力を無力化してしまいそうなほど現実味を感じさせなかった。
馬……白い、馬。
今俺はどこにいるのだろう。自分の居場所がわからなくなる。今日の出来事を全て最初から思い出し、俺が今いる場所を再確認しなければいけないのではないか。俺が認識した白い馬は、俺と青雲の間を横切った。
「ねえ! どうしたの!」
俺の思考を現実に戻してくれた静恵の声。
「なんでもない!」
今俺は、岩壁を抱きしめ、踏みしめ、越えようとしている最中だった。自分の疑問を解決する場所でも、静恵に対して、俺の目に映った幻覚まがいな存在の議論をする場所でもない。もしも同じものを見てしまっても、心奪われない事を彫心鏤骨して、ようやく違う岩肌の感触を触り始めた。
「あ、ハア!! ハ……ハ、は……」
登りきった。すぐにハーケン(釘)を打ち込み、ザイル(命綱)で静恵の安全確保に努める。
俺はこの青雲の下、全身に風を浴びるはずではなかったのか。
背中に岩の感触を感じながら、直前に見た白い馬の事が頭から離れなかった。頭が勝手に作り上げた幻影であったのか、何か記憶に白い馬との由縁があるのか。頭で考えられる限界を感じた俺は体を起き上がらせた。
「あ……」
その頂上からの景色を初めて眺められたという興奮に身を震わせたかったが、俺の視界のピントはもっと手前に合わせられた。
白い馬。それは一度は幼少の頃に母親に読まれた絵本であったり、少年の頃に偶然目にした映画であったりする空想の存在。付属品ではないと感じるような背中から伸びる広い翼。
それはペガサスという呼称以外、俺は知らなかった。
滑るように飛翔するペガサス。存在を肯定する理由が見つからない存在。けれど、存在を否定するにはあまりにも理想的に純粋な存在。俺は頂上に到達した喜び以上の神気を与えられた気持ちとなった。
「ハア! あ……、ハ! 和也かずや!」
感情の全てを奪われていた俺は、やっと現実に戻ったとでも言うのか。自分のいる場所やするべき事。大事な静恵の存在が皆無だったような心は俺という存在の意味を思い出した。触れていない存在よりも、感触と力強さを感じる静恵の手を握り、引き上げる大事な命の存在を確認しながら、二人で頂上に到達した。
「ハア! ハア! 和也! 何か今日、変よ」
「ごめん」
その理由を口で説明は出来なかった。出来るとすれば、静恵が自分の目で見てもらう事だけ。けれど、少し悪い想像していた事だが、その理想的で純粋な姿は、すでに目に触れる事はなかった。
◆◆◆
ザイルで懸垂下降した俺と静恵。頂上での俺の様子に少し気まずさを匂わせていた空気感は、懸垂下降から歩行に変わった頃には和やかなものだった。
ロッククライミングを愛するサークルにより建てられたロッジ。そこでは宿泊以外でも岩壁の情報交換や技術的なアドバイスを受けられる貴重な空間。大学の頃とは違って、本当にクライミングが好きな者だけが集まる。その中でも時折雑談の声が大きくなるのが岩壁を登る動物の話。それはロッククライミング顔負けであるほどの傾斜を登るアイベックスというヤギの話。あれには負けるとか、いい勝負ができるなど、動物から学べる事の話を熱気高く盛り上がる。
動物と聴いて思い出してしまう事は、やはり頂上で目撃したペガサス。けれど、それを口にすれば怪訝な目で見られる事は間違いない。アルコールでも入れば冗談話のように口を滑らせるかもしれないが、それでも口にすることには慎重になる。
春が恋しい。夏が待ち遠しい。秋が美味しい。冬が好き。
わかりやすい季節の変化を楽しむ人々は、衣替えを意識して、移り変わる風景を意識して、その季節だから楽しめる行事を待ちわびるだろう。
けれど、二度と来ないかもしれない季節は、どの季節を味わっても、俺が求めていたと気づいたものを失った心を埋めてはくれない。
テレビは相変わらず都合のいい情報に区別させられた『季節』というものに、例年と違う天候が発生しただけで異常気象と騒ぎ立てていた。いつもと変わらない内容。情報の自由は作り手のセンスで不安にも前向きにもさせる。けれどさすがに見飽きた。いつも同じ内容だ。
夏に雪が降ってもいいじゃないか。と、自分が童心となればはしゃぐ姿を想像する。もしも地球の氷河期と呼ばれる時代に、現代の科学と材料を持った人間がいたら、氷河期は防げていたか? つまり、成るものは成る、というものだろう。俺たち人間は、あの時期、成ることを怖がって、成らないことを頑張った。
俺の背中にあった小さな羽は、もう形が無く、痣だけとなっている。
あれは三年前の暦では秋に入ったころだった。
◆◆◆
「おい! 危ないぞ!」
「大丈夫! 自分の心配をして!」
岩壁を抱きしめながら、数秒後には自分に言い聞かせたかのように木霊する俺の声。それと重なり婚約者の静恵しずえの言葉に、流れる汗は風に熱を奪われ冷や汗となる。加えて、忘れそうになっていた自分を支える筋肉の傷みを認識させられた。
趣味はロッククライミング。そのように言えば大抵の人間は「へぇ!」と言って数分間の雑談のネタにはなる。俺と静恵が挑戦しているのは頂上へ登る事が一番の目的としているアルパイン・クライミング。
頂上から眺める視覚的な山肌や、到達したという心の達成感は、自分には挑戦した事を成し遂げられるという俺の可能性を高めてくれる。
もう少し、もう少し。
これが地上の平面であれば歩いて二秒程度の距離だろう。けれど、地上より垂直に面している凹凸の少ないこの壁は、指一本の力加減を間違えただけで俺の自信をもぎ取るほどの静かで頑固な面構えをしている。
何度見上げてしまっただろう。
空をほんの一瞬眺めるだけで、ほとんど青にしか見えない白の少ない蒼天は、次に眺めた時にはさっき見た白く細い巻雲の位置が大きく動いていることに、風の強さを教えてくれる。
その風を全身に浴びたい。それが今一番自分を癒せる全ての願い。
願いを込めて再び全身に気勢を呼びかけ、膂力を振り絞った。その瞬間、俺は夜を感じるほど、手元が見えなくなった。
影?
一瞬俺の体は影に覆われた。この青雲の下で壁にしがみつく俺に一瞬の影。サングラスを掛けていた事も重なり、その暗闇に、自分が次にどこへ手足を進ませようか忘れそうになる。
再び蒼天へ向かって顔を上げる。目に入ったそれは、全身へ適切に配置させた力を無力化してしまいそうなほど現実味を感じさせなかった。
馬……白い、馬。
今俺はどこにいるのだろう。自分の居場所がわからなくなる。今日の出来事を全て最初から思い出し、俺が今いる場所を再確認しなければいけないのではないか。俺が認識した白い馬は、俺と青雲の間を横切った。
「ねえ! どうしたの!」
俺の思考を現実に戻してくれた静恵の声。
「なんでもない!」
今俺は、岩壁を抱きしめ、踏みしめ、越えようとしている最中だった。自分の疑問を解決する場所でも、静恵に対して、俺の目に映った幻覚まがいな存在の議論をする場所でもない。もしも同じものを見てしまっても、心奪われない事を彫心鏤骨して、ようやく違う岩肌の感触を触り始めた。
「あ、ハア!! ハ……ハ、は……」
登りきった。すぐにハーケン(釘)を打ち込み、ザイル(命綱)で静恵の安全確保に努める。
俺はこの青雲の下、全身に風を浴びるはずではなかったのか。
背中に岩の感触を感じながら、直前に見た白い馬の事が頭から離れなかった。頭が勝手に作り上げた幻影であったのか、何か記憶に白い馬との由縁があるのか。頭で考えられる限界を感じた俺は体を起き上がらせた。
「あ……」
その頂上からの景色を初めて眺められたという興奮に身を震わせたかったが、俺の視界のピントはもっと手前に合わせられた。
白い馬。それは一度は幼少の頃に母親に読まれた絵本であったり、少年の頃に偶然目にした映画であったりする空想の存在。付属品ではないと感じるような背中から伸びる広い翼。
それはペガサスという呼称以外、俺は知らなかった。
滑るように飛翔するペガサス。存在を肯定する理由が見つからない存在。けれど、存在を否定するにはあまりにも理想的に純粋な存在。俺は頂上に到達した喜び以上の神気を与えられた気持ちとなった。
「ハア! あ……、ハ! 和也かずや!」
感情の全てを奪われていた俺は、やっと現実に戻ったとでも言うのか。自分のいる場所やするべき事。大事な静恵の存在が皆無だったような心は俺という存在の意味を思い出した。触れていない存在よりも、感触と力強さを感じる静恵の手を握り、引き上げる大事な命の存在を確認しながら、二人で頂上に到達した。
「ハア! ハア! 和也! 何か今日、変よ」
「ごめん」
その理由を口で説明は出来なかった。出来るとすれば、静恵が自分の目で見てもらう事だけ。けれど、少し悪い想像していた事だが、その理想的で純粋な姿は、すでに目に触れる事はなかった。
◆◆◆
ザイルで懸垂下降した俺と静恵。頂上での俺の様子に少し気まずさを匂わせていた空気感は、懸垂下降から歩行に変わった頃には和やかなものだった。
ロッククライミングを愛するサークルにより建てられたロッジ。そこでは宿泊以外でも岩壁の情報交換や技術的なアドバイスを受けられる貴重な空間。大学の頃とは違って、本当にクライミングが好きな者だけが集まる。その中でも時折雑談の声が大きくなるのが岩壁を登る動物の話。それはロッククライミング顔負けであるほどの傾斜を登るアイベックスというヤギの話。あれには負けるとか、いい勝負ができるなど、動物から学べる事の話を熱気高く盛り上がる。
動物と聴いて思い出してしまう事は、やはり頂上で目撃したペガサス。けれど、それを口にすれば怪訝な目で見られる事は間違いない。アルコールでも入れば冗談話のように口を滑らせるかもしれないが、それでも口にすることには慎重になる。
作品名:悔季 geki ~violent~ 作家名:ェゼ