雑草の詩 5
『雑草(ざっそう)の詩(うた)』 5
第 三 章
1
「へい、いらっしゃい。おや、猪熊さんでしたか。お久しぶりですね。
さあ、どうぞ、お掛けになって。」
「やあ。」と店主に片手を挙げてあいさつした猪熊は、一人で飲んでいた真悟の父の隣へ座った。
「済まなかったな、先生。随分待ったろう。」
「いや、飲んでる分には良い時間だったよ。
それより、何の用だい。あんたからの呼び出しなんて、珍しいからな。」そう言いながら、彼は猪熊の為に杯をとり、酒を注いだ。
「オット、ありがとう。まずは乾杯だ。
昨日な、来たよ、真悟君が。」
「やっぱり‥‥‥、そんな事だろうと思ったよ。
ところで、どうだった、元気にしてたか?」
「ああ、元気そうだった。
家を飛び出してから方々仕事を探したらしいんだが、身許不明の保証人無しじゃ、まあどこでも働かせてはくれんわな。それで奴さんも大弱りって訳だ。ところが、ある新聞販売所の親父ってえのが、保証人さえあればいいって言ったらしくてな、思案の挙げ句、俺んところへ来たって訳さ。すぐにでも住み込めて、食べものにもありつける職場ってえ訳だ。
俺も今日行ってきたが、何か胡散臭そうな奴だったよ。まあ、本人が体使って働きたいって言うから、ハンコだけは押してきた。
どうだい、行って見てみるか?」猪熊はニヤニヤ笑って父の顔を覗き込んだ。
「いや、いい。元気ならいいんだ。
それより、私に黙っとくようには言われなかったのか?」
「ああ、言われたさ、しっかり。でも、お前さんが訊ねて行くとは思わなかったさ、ワハハハ、無責任ないい親父さんだからな、ハハハハ‥‥‥。
それよりどうした、学校の方は?」
「ああ、入学の手続きは済ませて、何とか休学ということにしてもらった。」
「そうか、そりゃあ良かった。
後は本人の自覚だけって訳だ。」そう言って楽し気に杯を干した猪熊だった。「どうしたんです、御二人とも、やけに楽しそうじゃないですか。何か良いことでもあったんですか?」
「まあ、そういうことだ。どうだい、親父さんも一杯。」
「はい、頂きましょうかね。
それじゃ。」猪熊の勧めに、店主も喜んで酒を口に運んだ。
「さあ先生、飲もうや、今夜は。
親父さん、酒も肴もどんどん出してくれ、とっておきの奴をな!みんな、この先生のオゴリだからな。
これ位の密告料は貰わんとな、ワハハハ‥‥‥。」
明るい猪熊の笑い声は、その夜中、店の隅々にまで響き渡っていた。
「どうだい、母さん、こっちへ来ないか。たまには二人っきりで酒でも飲もうじゃないか。
さあ、こっちへおいで。」
幸恵が、そしてその後を追うようにして真悟が飛び出していって以来、陰湿な空気が坂口家を支配していた。母は塞ぎ込むようにして日々を送り、自分の想像をはるかに超えた物事の進行に心を痛ませ、苦しんでいた。
「さあ、母さん。」
夫の声に促されて、台所のテーブルの前に座り込んでいた妻はようやく重い腰を上げた。
「こうやっていると、思い出さないか。結婚した頃のことを………。
世の中は混乱していたが、私達には何の障害もなく、みんなに祝福され見守られていたっけなあ。そして真悟が生れて………、今もこうしてお互いに健康で幸福だ。
母さん、母さんの気持ちは良く分かる、しかし、」
「いいえ、貴方には分かりません。あの子は、私がお腹を痛めて産んで、育ててきたんです。
幸せになつて欲しいんです!幸せにしてあげたい!それをよりによって。
何も幸恵さんじゃなくったっていいじゃありませんか、他にも良いお嬢さんは大勢いるんですから!」瞳をキッと見開いたまま、夫をニラむ妻だった。
ソファーに身を沈めたまま、妻が興奮から醒める時を夫はじっと待ち続けていた。しばらくの沈黙が二人の間を通り抜けた。
「今まで私の人生の中で、幸恵さん程人間として、また女性として限りない魅力を持った人物にであったことはないよ。 彼女の事を、まるで天使みたいな人だ、そう母さんも言っていたじゃないか。」
「それとこれとは話が違います。」
「いや、違わない。
そんな素晴らしい人間を、真悟は愛し、また幸恵さんも愛してくれたんだ。親として、これ以上の喜びはないじゃないか。 誰からも愛される、そんな素敵な女性に選ばれたんだよ、真悟は!
母さんだって、それは認める筈だ。いや、認めている筈だ!彼女以上の人間を、母さんは知っているのか?君の周りにいるのか!
決して、そう簡単に見つけ出せる訳はないよ。」
「でも彼女は普通の体じゃありませんわ。身寄りもないし、それにあの事件のことだって‥‥‥。」
必死で夫に抗しようとした妻も、あの事件の事を口に出した、そのことに気付いた途端に、赤面して恥ずかしそうに下を向いてしまった。
妻のしぐさを黙って見詰めていた夫は、再び口を開いた。
「産まれてくるまではみんな同じだ、何も変わりはしない。しかし、不幸にして健康な体を持つことなくこの世に生を受ける人は大勢いる。本人の意思とは関係なく、だ!
育った環境だってその人が選んだ訳じゃないんだ。たとえ貧乏だろうが親がなかろうが、世間へ出たらみんな同じだ、同じように努力して生き抜いていかなくちゃならない。けれど、生まれや育った環境なんて、当人とは何の関わりもないんだよ。あとは、本人の人間性の問題なんだ。ハンディを背負っても、我々以上に立派な人は大勢いるんだ、心の優しい、素敵な人が!幸恵さんのような!
真悟の迷いを取り除いてくれたのも彼女だ!一生懸命に勉強に励ませたのも、彼女だ。私達が何をした、一体何ができた!ただ見ていただけじゃあなかったのか!
真悟が独り立ちできたのは、みんな彼女の、幸恵さんのお陰なんだ!
なあ、母さん、真悟ももう子供じゃない。ひとりの男だし、ひとりの人間だ。母さんが考えている幸福と真悟の考えている幸福がたとえ違っていても、それは息子の進歩だって認めてあげようじゃないか。
彼も人間として歩き始めたんだ。その下地は、ちゃんと幸恵さんが作ってくれた。もういいじゃないか、見守ってあげよう。真悟はちゃんと一人で歩いて行くよ、いや歩いてもらわんと困るんだ。」
夫はしばらく沈黙した。そして、優しく妻の手を取り微笑んで、
「人間は、いくら生きたって所詮七・八十年だ。他人のことを気に病んで暮らしたってつまらないじゃないか。親子兄弟だって同じだよ、みんな一人なんだ。自分の道も自分で切り開いてゆけないなんて、それじゃ寂しすぎやしないか?そうは思えないかい?
信じてやろう。なあ、信じさせてもらおうよ、親として、真悟を。
それに第一、君は真悟が産まれるよりずっと前から、私の恋人であり、妻だったんだよ。私のことなんて、もうとっくに忘れてたんじゃないだろうね。」
妻は夫の手を僅かな力で握り返し、この数日来忘れていた笑みを夫に向けて浮かべたのだった。
2
「おい、坂口、おっかあ。」
第 三 章
1
「へい、いらっしゃい。おや、猪熊さんでしたか。お久しぶりですね。
さあ、どうぞ、お掛けになって。」
「やあ。」と店主に片手を挙げてあいさつした猪熊は、一人で飲んでいた真悟の父の隣へ座った。
「済まなかったな、先生。随分待ったろう。」
「いや、飲んでる分には良い時間だったよ。
それより、何の用だい。あんたからの呼び出しなんて、珍しいからな。」そう言いながら、彼は猪熊の為に杯をとり、酒を注いだ。
「オット、ありがとう。まずは乾杯だ。
昨日な、来たよ、真悟君が。」
「やっぱり‥‥‥、そんな事だろうと思ったよ。
ところで、どうだった、元気にしてたか?」
「ああ、元気そうだった。
家を飛び出してから方々仕事を探したらしいんだが、身許不明の保証人無しじゃ、まあどこでも働かせてはくれんわな。それで奴さんも大弱りって訳だ。ところが、ある新聞販売所の親父ってえのが、保証人さえあればいいって言ったらしくてな、思案の挙げ句、俺んところへ来たって訳さ。すぐにでも住み込めて、食べものにもありつける職場ってえ訳だ。
俺も今日行ってきたが、何か胡散臭そうな奴だったよ。まあ、本人が体使って働きたいって言うから、ハンコだけは押してきた。
どうだい、行って見てみるか?」猪熊はニヤニヤ笑って父の顔を覗き込んだ。
「いや、いい。元気ならいいんだ。
それより、私に黙っとくようには言われなかったのか?」
「ああ、言われたさ、しっかり。でも、お前さんが訊ねて行くとは思わなかったさ、ワハハハ、無責任ないい親父さんだからな、ハハハハ‥‥‥。
それよりどうした、学校の方は?」
「ああ、入学の手続きは済ませて、何とか休学ということにしてもらった。」
「そうか、そりゃあ良かった。
後は本人の自覚だけって訳だ。」そう言って楽し気に杯を干した猪熊だった。「どうしたんです、御二人とも、やけに楽しそうじゃないですか。何か良いことでもあったんですか?」
「まあ、そういうことだ。どうだい、親父さんも一杯。」
「はい、頂きましょうかね。
それじゃ。」猪熊の勧めに、店主も喜んで酒を口に運んだ。
「さあ先生、飲もうや、今夜は。
親父さん、酒も肴もどんどん出してくれ、とっておきの奴をな!みんな、この先生のオゴリだからな。
これ位の密告料は貰わんとな、ワハハハ‥‥‥。」
明るい猪熊の笑い声は、その夜中、店の隅々にまで響き渡っていた。
「どうだい、母さん、こっちへ来ないか。たまには二人っきりで酒でも飲もうじゃないか。
さあ、こっちへおいで。」
幸恵が、そしてその後を追うようにして真悟が飛び出していって以来、陰湿な空気が坂口家を支配していた。母は塞ぎ込むようにして日々を送り、自分の想像をはるかに超えた物事の進行に心を痛ませ、苦しんでいた。
「さあ、母さん。」
夫の声に促されて、台所のテーブルの前に座り込んでいた妻はようやく重い腰を上げた。
「こうやっていると、思い出さないか。結婚した頃のことを………。
世の中は混乱していたが、私達には何の障害もなく、みんなに祝福され見守られていたっけなあ。そして真悟が生れて………、今もこうしてお互いに健康で幸福だ。
母さん、母さんの気持ちは良く分かる、しかし、」
「いいえ、貴方には分かりません。あの子は、私がお腹を痛めて産んで、育ててきたんです。
幸せになつて欲しいんです!幸せにしてあげたい!それをよりによって。
何も幸恵さんじゃなくったっていいじゃありませんか、他にも良いお嬢さんは大勢いるんですから!」瞳をキッと見開いたまま、夫をニラむ妻だった。
ソファーに身を沈めたまま、妻が興奮から醒める時を夫はじっと待ち続けていた。しばらくの沈黙が二人の間を通り抜けた。
「今まで私の人生の中で、幸恵さん程人間として、また女性として限りない魅力を持った人物にであったことはないよ。 彼女の事を、まるで天使みたいな人だ、そう母さんも言っていたじゃないか。」
「それとこれとは話が違います。」
「いや、違わない。
そんな素晴らしい人間を、真悟は愛し、また幸恵さんも愛してくれたんだ。親として、これ以上の喜びはないじゃないか。 誰からも愛される、そんな素敵な女性に選ばれたんだよ、真悟は!
母さんだって、それは認める筈だ。いや、認めている筈だ!彼女以上の人間を、母さんは知っているのか?君の周りにいるのか!
決して、そう簡単に見つけ出せる訳はないよ。」
「でも彼女は普通の体じゃありませんわ。身寄りもないし、それにあの事件のことだって‥‥‥。」
必死で夫に抗しようとした妻も、あの事件の事を口に出した、そのことに気付いた途端に、赤面して恥ずかしそうに下を向いてしまった。
妻のしぐさを黙って見詰めていた夫は、再び口を開いた。
「産まれてくるまではみんな同じだ、何も変わりはしない。しかし、不幸にして健康な体を持つことなくこの世に生を受ける人は大勢いる。本人の意思とは関係なく、だ!
育った環境だってその人が選んだ訳じゃないんだ。たとえ貧乏だろうが親がなかろうが、世間へ出たらみんな同じだ、同じように努力して生き抜いていかなくちゃならない。けれど、生まれや育った環境なんて、当人とは何の関わりもないんだよ。あとは、本人の人間性の問題なんだ。ハンディを背負っても、我々以上に立派な人は大勢いるんだ、心の優しい、素敵な人が!幸恵さんのような!
真悟の迷いを取り除いてくれたのも彼女だ!一生懸命に勉強に励ませたのも、彼女だ。私達が何をした、一体何ができた!ただ見ていただけじゃあなかったのか!
真悟が独り立ちできたのは、みんな彼女の、幸恵さんのお陰なんだ!
なあ、母さん、真悟ももう子供じゃない。ひとりの男だし、ひとりの人間だ。母さんが考えている幸福と真悟の考えている幸福がたとえ違っていても、それは息子の進歩だって認めてあげようじゃないか。
彼も人間として歩き始めたんだ。その下地は、ちゃんと幸恵さんが作ってくれた。もういいじゃないか、見守ってあげよう。真悟はちゃんと一人で歩いて行くよ、いや歩いてもらわんと困るんだ。」
夫はしばらく沈黙した。そして、優しく妻の手を取り微笑んで、
「人間は、いくら生きたって所詮七・八十年だ。他人のことを気に病んで暮らしたってつまらないじゃないか。親子兄弟だって同じだよ、みんな一人なんだ。自分の道も自分で切り開いてゆけないなんて、それじゃ寂しすぎやしないか?そうは思えないかい?
信じてやろう。なあ、信じさせてもらおうよ、親として、真悟を。
それに第一、君は真悟が産まれるよりずっと前から、私の恋人であり、妻だったんだよ。私のことなんて、もうとっくに忘れてたんじゃないだろうね。」
妻は夫の手を僅かな力で握り返し、この数日来忘れていた笑みを夫に向けて浮かべたのだった。
2
「おい、坂口、おっかあ。」