Wingman
元々、自分は人を殺せる性格ではないと思っていた。殺す訓練を受けただけで、根っからの人殺しではないと。考えを改めたのは、二十二歳のときだ。大先輩の月岡と初めて組んだ年で、海外は二回目だった。観光客然としたカラフルで滑稽な出で立ちは月岡が指定したもので、『自分が何者でどこにいるのか、全く分からないみたいな顔をしていろ』と、空港で言っていた。その通りに演じていたら、屋台で晩飯を食べた帰り、背後から首にナイフを突きつけられて、汚い発音の英語で『金』と何度も言われる羽目になった。現地人の強盗が選んだ狩場だからか、人気は全くなかった。体は自然に動き、ナイフは持ち主だったはずの強盗の首へあっさりと吸い込まれ、返り血を浴びたくないから引き抜くことはしなかった。
月岡とおれには共通点があった。それは、元自衛隊員であるということと、辞める直前に様々な機械を頭へ取り付けられて脳波や心理状態を計測され、その次の日に『ノミヤマ』と呼ばれる白髪頭の男と会ったということ。要点は単純明快だった。
『君は、これからも国防に関わり続けなさい』
そうやっておれは、かつての月岡と全く同じ道を辿り、ノミヤマが経営する民間企業の社員になった。社員証もあれば、福利厚生もある。海外へ出るときは出張手当がつくし、月給で生活している身分なのは、会社員と変わらない。給料の水準はさほど高くないが、若手のころから危険手当だけはべらぼうに高かった。
三十年は、あっという間に過ぎた。五十二歳になったおれは今、三人の部下と共に仕事をしている。今は、地下駐車場の隅に作られた即席の『小部屋』の中で、野島が結果を出すのをじっと待っているところだが、正直、この狭い空間から早く出て行きたい。
野島は三十五歳。本人の自己分析によると風来坊で、それを敢えて周りに証明するように、今も派手な色のアロハシャツを着ている。大柄なだけでなく姿勢がいいから、対面するとほとんど壁のように見える。最後の経歴は外人部隊。訓練だけで実弾を撃つことなく除隊したが、東アジア圏内で使われる言葉は、ほとんど全てを話すことができる。その言語能力と、風来坊らしからぬ意外に厳密な性格は、尋問向きだ。用意する水の量、繊維がほつれないタオルの材質、相手が歯を立てられないようにするためのマウスピース、色から形まで、全てが決まっている。相手は、ファスナーを中途半端に開けた死体袋の中に入れられて頭だけが出ている状態だから、棺桶がほぼセット済みの状態でスタートする。
顔にタオルを被せられた男の上から、野島は細く水を垂らした。尋問の方法としては、相手に傷が残らない最も『人道的』な方法だが、溺れるような苦しさは想像を絶する。男の体が魚のように跳ねまわり、野島がタオルをどけると激しくせき込みながら首を横に振った。おれは小さくため息をついた。振り返った野島は、思ったように聞き出せないからか、明らかに苛立っている。
「しぶといですね」
「慣れてるのかもしれんね」
おれはそう言って、スマートフォンをポケットから取り出した。家族のグループメッセージで交わされる話題はただひとつ。土産だ。父親が出張に出かけるというフレーズは、いつの間にか『パパ出』という短いフレーズに置き換わり、『竹内家』と銘打たれたグループメッセージのメンバーは、妻の郁子と、大学生の尚輝、そして高校生の遥香。二十年前、通訳の仕事をしていた郁子とホテルのバーで知り合うまでは、こんな仕事をしながら 一男一女の四人家族を持つことになるなんて、全く想像もしていなかった。土産のリクエストをスクロールしていると、野島が男に耳を近づけて、何かを聞き取った後、顔を上げた。
「ただの見張りだったと。顔は見ていないそうです。インターネット経由で雇われて、誰かが来たらかけるように、番号だけを教わったようです」
「よくある話だなー、ほんとかあ?」
おれが苦笑いを浮かべながら言うと、野島は口角を上げて笑った。その右手にはすでにペンが握られ、聞き取ったに違いない番号が、左手のメモ帳にすらすらと記され始めている。どうにかして冷静さを保っているが、少しだけ感情が突き破っている。無理はない。
おれには三人の部下がいて、野島の担当はおれと同じく諜報。残りの二人は鶴田と横野で、二人とも三十歳で緻密な性格ではなく、主に殺しを担当している。僧侶のような坊主頭がトレードマークの鶴田は海上自衛隊が持て余した『逸材』で、一匹狼の性質は今でも消えず、一人で完結する任務を好む。ひょろりとした長身の横野は真逆で人懐っこく、引き金を引くまではほろ酔いのサラリーマンのように陽気だった。長期出張中に現地で妻子を持つまでは。
二重生活を送るなら、拠点も二重にした方がいい。横野が結婚の決意を固める直前、おれはそうアドバイスした。おれなら、郁子や子供たちが待つ家に帰れば、どんな残酷な運命を目にしたとしても、それは海外のおとぎ話として隅に置いておける。短く『大丈夫です』と答えた横野は結婚して五年目、二歳の娘がいた。
一昨日、強盗が家に侵入して妻子を殺すまでは。
妻と喧嘩をした横野は近くのバーをうろついていて、家を空けていた。犯行の時間帯は四本目のシンハービ―ルを飲みながら、ちょうどおれと電話で話していたところだった。
『カラッとした仕事があれば、次は鶴田じゃなくて自分に回してほしいです』
横野は、鶴田と折り合いがあまり良くない。得意分野が同じだから無理もないが、相手に穴を空けるだけの、いわば純粋な銃撃だけの仕事なんてものは、滅多にない。鶴田があの剣呑極まりない目つきで標的を穴だらけにする数秒間。その手前には、おれと野島が担当する数週間の諜報がある。諜報と殺しの中間を漂っていた横野は自分の力を証明したがっていたが、家族との間で板挟みになっていた。実際、家族ができてからは難しい仕事をあまり振らなくなっていたが、それは家庭円満には役立っても、横野からすれば不満を募らせる原因になっていたらしい。
野島は、ラップトップに繋がれた男のスマートフォンの履歴を辿っていたが、不意におれの方を向いた。
「同じ番号があります。プリペイド携帯でしょうか」
犯行の数分前に横野家の電話が鳴らされていて、妻が出ている。記録された通話は無言のままだったが、男のスマートフォンに残っていた番号は、その無言電話の番号と同じだった。
「ファインプレーだな。こいつはクロだわ」
おれが言うと、野島は片方の眉をひょいをあげた。男を尋問するのと並行して解析していたスマートフォンの中身は、ほぼ丸裸になっている。
「こいつとおしゃべりしたいか? それか、そっちを調べた方が早そうか?」