輝きのなかで
「輝きのなかで」
「お母さん、読んであげようか」
見上げた大志の瞳の奥に柔からな笑みを湛えた母が映った。
右手で固く握っていた筒の先を開けると、仄かに酸っぱい匂いが漂った。
「全国絵画コンクール小学校四年生の部、優秀賞、篠山大志」
先程行われた表彰式の緊張感が甦ったのか少し震えた声が、朱色を吸い込み始めた天に向かって拡がっていった。
母の手が大志の小さな手を包んだ。家から程近い食堂で働く掌は、僅かにかさかさしていた。
緩やかな曲線で描かれた母の横顔を覗き込み、そのままその先にある声が消え入った空を大志は見つめた。
五月の微熱を含んだ空気の流れが通過していった。
こげ茶色の塗装がところどころ剥げ落ち板と板との継ぎ目が残照にあらわになったアパートが姿を現した。
家までもうすぐだった。
十字に分かれた道を右側に折れると、黄色い閃光が大志をとらえた。
近くの工事現場のものらしい車がアパートの前に止まっていて車体の上部に取り付けられた回転灯が回っていた。
回転灯は、鮮やかな黄色い光を繰り返し放ち、その光の先端が円を描いて、何度も何度も大志の顔を掠めていった。
大志は母の手を強く握り返した。湧き上がってくる力みたいなものを感じ、母を引っ張るような形で前に進み出て、光の方へと歩を速めていった。
その小さな背中の後ろには、大志の足元を気遣う、変らぬ母の笑みがあった。
波頭に反射し乱舞する光が海面に消えようとしている夕日の金色の帯を揺らせている。
震える帯の外側では、すみれ色のうねりが次第に深みを増しながら、金色のうねりを飲み込んでいく。
次第に細く、小さくなっていく光の筋とそれを包み込むすみれ色が、闇に満たされていく海面にくっきりと映しだされ始める。
大志は、覆い茂った雑草の上に腰を下ろして、その画趣を眺めていた。
何も考えてはいない。
ただ待っているのだ、誘われるのを。
何とも言えない世界、言葉にできない世界
純粋な世界へ溶け出していくような感覚に捉えられ、焦点がぼやけ始めると大志は目を閉じた。
もう何も見る必要はなかった。
瞼の内側の晦冥に、残像が一点の光となって戯れた。その光は、実在の光より一層赫灼としていた。
これが輝きの正体。大志は、恍惚となって目を瞑り続けた。
獣道を降り、民宿で借りた自転車にまたがった。すっかり暗くなった道では、ポツリポツリとある民家の明かりがたよりだった。
滑り止めの凹凸が刻まれたコンクリート舗装の坂道に出ると、坂の途中に木造建ての古びた家屋がひっそりと佇んでいるのが目に入った。
生垣越しに窓から洩れてくる明かりが、玄関口に立て掛けられた(民宿ふるさと)と書かれた看板の文字を照らしていた。
大志は、ガラス戸を大きな音をたてないように用心深く開けた。
玄関のすぐ脇に階段がついていて、それを上った正面突き当たりに大志が泊まっている部屋があった。
その部屋に向かって、階段を四、五段上り始めた時、声がした。
「綺麗だったでしょ。夕日」
階下に、ふみちゃんが立っていた。
「あの場所から見る夕日は最高なんだから」
うれしそうな瞳をおかっぱ頭の下から、覗かせた。
大志は、つられて微笑み軽く頷いたが足は忙しなく階段を一段一段捉えていた。
階段を上り切ったところで、又背中に声がした。
「夕ご飯、できてるわよ。お風呂も」
今度は落ち着いた声だった。
食堂で椅子に腰掛け、頬杖をついた。安っぽそうなテーブルが軋んだ。
大志が着たのに気づいたのか、部屋つづきになっているキッチンから、ふみちゃんが顔を突き出した。
「今日は、お兄ちゃんの貸切よ」
大志の途惑う顔を見て、いたずらっぽく笑った。
キッチンの奥で、ふみちゃんを窘めるおばあさんの声がした。
「だって」
指で突っつきたくなるような弾力がありそうな頬っぺたを膨らませて、ふみちゃんはキッチンの奥を振り返った。
お盆に載せられたものを、落とさないようにしっかりと添えた両手を見つめて歩いてくるふみちゃんを追って、補助杖をついたおばあさんがキッチンから出てきた。
大志が自転車を借りた礼を言うと、おばあさんは頷いた。
「お口に合いますかどうか」
テーブルに並べられる品々に視線をやりながらおばあさんが口を開いた。
「美味しそうですね」
大志のその言葉に、ふみちゃんが、おばあさんに向かって、片目を瞑ってみせた。
「一週間のお泊りで」
「じゃあお兄ちゃん、お祭りの日までいるんだ」
大志が、答える間もなくふみちゃんが大きな瞳を一層大きくさせた。
「私ね、お神輿の上に、乗るかもしれないのよ。学校の先生が決めるんだけど。久美ちゃんって子がライバルで……」
気持ちの盛り上がりを抑え切れないように話だしたふみちゃんの顔の前に、おばあさんが手を差し出した。(迷惑になるでしょ)という素振りだった。
「いいのですよ。私もお祭りを楽しみにしているのですから」
ふみちゃんは、ほらやっぱりという面持ちで言葉を継いで、自分が如何にしたらお神輿の上に乗れるかをしゃべり始めたが、大志が夕食に手を出すのを認めると、遠慮してか口をつぐんだ。
「ごゆっくり」という先程と同じような大人びた言葉を残し、くるりと反転した弾むような小さな背中を大志は見送った。
食事が終わる頃合を見計らって、おばあさんが昔ながらの宿帳を持ってきた。
鉛筆を滑らす大志の指の動きを、ぼんやり眺め独り言を言うような口調で話だした。
「ここはね。海水浴のお客ぐらいしかこないのですよ。毎年この時期になると民宿を閉めてますから。シーズンが終わって急に閑散とした時に、お客さんがきてくれて、ふみもうれしいのでしょう。私と二人きりじゃ、寂しいでしょうからね」
左足を摩る動きに合わせて、白髪交じりの髪が揺れていた。
「でも、この小さな町の祭りを知っているなんてめすらしいね。ここには観光かい?」
「母の、亡くなった母の故郷なもので」
子細を話すつもりはなかったが、ある種同じような境遇、肉親の死というものを感じ取っていた大志は素直な答えを返した。
「そうかい……」
おばあさんは、寂寥たる目をキッチンの方に向けた。そこからは、ふみちゃんが洗い物をしている音が聞こえていた。
「どれどれ、ちゃんと洗えているかね」
宿帳もそのままに席を立つと、何か大切なことをしにいくような、ゆったりとした足取りで音の方に向かっていった。
部屋に戻った大志は、旅行鞄を整理し始めた。下着や服などを取り出し、部屋に備え付けの収納ダンスへと仕舞っていった。その作業が一段落すると、大志は鞄の底を探り、灰色の筒を手に取った。
仕事を辞めて、当て所も無く各地を回り二ヶ月、祭りの日程に合わせて大志はこの地にやってきた。筒のなかにある一枚の絵、母が描いたこの町の祭りの光景が大志を導いたのだった。
筒から取り出した画用紙を一度丁寧に反対側にまるめてからゆっくり手を離すと、反発力で踊るように畳の上に広がった。
刹那、それは絵という限定されたものではなく、多彩な色が溶け合う一つのある塊のように感じた。
大志は改めて焦点を絵に合わせた。