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夜明け

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「あの青カビね。皮をむけば食べられることもあるけれど、まあ東京の人は食べないわよね。スーパーとかだとカビそうだと分かるとすぐに廃棄するって聞きますし」
 でもね、とハシモトさんが言った。
「カビそうなくらいの方が実はおいしいのよ。程度を見極められないとまずいでしょうけどね」
 その蜜柑はカビてないから安心してというハシモトさんの言葉が早く食べてという言葉に聞こえてしまって、仕方ないから私は皮を剥きだした。少し、もったいない気分は拭えない。

「ここも随分古くなってしまったわね」
 少し沈黙が続いた後、ハシモトさんが呟いた。誰も何も言わない。寝ているのかもしれない。
「以前にも来たことがあるのですか」
「ええ。数年前に。あの時も雪で電車が止まってしまって、こんな感じよ」
「数年前ならそう変わっていないのでは?」
「そうね。でも人があまり出入りしないところっていうのは、年数よりも圧倒的に古くなりやすいの。ほら、少し古い匂いがするじゃない?」
 そういわれながら暖房の匂いしか感じられない私は、ハシモトさんにしか感じ取れていない古い匂いというものを探した。……爪先に残った蜜柑の匂いしか見つけられない。
「さあ、私にはさっぱり」
「そう。田舎者だからかもしれないわね」
「私も田舎出身ですがね。畦道で遊んでいたような」
「あら。田園風景も素敵よね。私はヤゴが好きなの。よくいるじゃない?」
 私はこの時、ハシモトさんとの間に共通の田園風景が見えている気になっていた。東京人と話すとやけに綺麗な畦道を想像しているのがわかり、こちらが思い出している寂れた風景との差に感覚が麻痺するような感じがしてしまうのだ。
「ああいう田園風景のね、夜明け前も好きなの。朝日が霧を通り越してきたりするじゃない? 畦道を走ったりするとなんだか夜まで元気になれるわ。東京に来るとそれを毎回思い出すの。この街の朝日はちょっと、窮屈そうだからね」
 ハアシモトさんの言葉で私は早朝の始発電車を想像していた。つい数日前の出勤の様子が思い出されて、あの時は朝日なんか見やしなかったな、と。

「思い出したわ」
 ハシモトさんが珍しく少し大きな声でそういった。何人か眠りを邪魔されたらしくていびきがいくつか止んだ。
「この休憩所から見える朝日は素敵だったの。その時も蜜柑を食べていたけれど、まるでとれたての蜜柑が浮かんでいるようだったわ。あのまま食べてしまいたいくらいの」
 ハシモトさんは休憩室に一つだけ設けられた窓ガラスを見ていた。雪粒が窓に張り付いているのか、外の世界が灯りを忘れたのか、均一な闇が見えた。
「でも、もう見えないかもしれないわね。数年前にはなかったビルがいくつも建っているんですもの。みんなおんなじような形してるから、私みたいな田舎者には大変よ。迷ってしまって仕方ないわ」
 そう言い残して、ハシモトさんは急に眠くなったらしく言葉数が急減して、もう寝るわと言って、灯りが灯っていない椅子の方に歩いて行った。私は蜜柑のお礼を告げて、周りの人間たちにも軽く会釈をし、皆、そのまま眠りについた。

 駅員が灯りを完全に消して、やかんの水を足してからもう誰も動かなくなった。
 ほとんどの人間が眠っているか、寝苦しさに一瞬目を覚ましてまた眠るを繰り返している中、私は一人、眠りつけずにいた。スケッチブックをめくる音とやかんの音だけが小さく響く。数日前に書いた花瓶の絵を触る。黒鉛が指先についてしまった。花瓶が滲んで、あら、これはこれで良いだなんて思いながら、さっき書いた三ページ目を開こうとするが、雪粒で張り付いてしまってうまく捲れない。破かないように頑張るが完全に乾ききらないといけないようであった。
 スケッチブックを鞄にしまって、ハシモトさんの言葉を思い出して窓ガラスをみると微かに朝日を迎え入れようとしていて、私はハシモトさんが見た朝日を見てみたいと思っていた。三ページ目に書いた吹雪の様子に朝日が差し込むとおそらく、いや確実にきれいなはずだ! どこかで見た雪原の風景に近いものが窓ガラスの向こうに広がっている。しかし窓ガラスの向こうにはビルの姿が見えて、やはりここからは見えないらしい。
「行ってみるか」
 私は誰にも聞こえないように呟いて、自分の気持ちを確かめた。食べ終えた蜜柑の皮は捨てられそうにないので鞄にしまって、誰も起こさないように静かに、静かに休憩室を後にした。

 吹雪は止んでいない。朝日を迎えていた駅前は随分明るい。ビルとビルの隙間から朝日が漏れていて、それを吹雪が隠している。
 改札を抜ける際、駅員に歩いて帰ると告げるとやめた方が良いと言われたが、大丈夫です。雪国出身なのでと適当に嘘をついて、Suicaをタッチせずに外に出た。
 雪にまみれながら西に向かう。あと数歩先の路面が明るい。ビルとビルの隙間まで歩き切って、朝日が私を照らした。吹雪の隙間がちょうどやってきたらしい。
 雪粒が焦がされていく。空中で分解され、さらに細かくなって朝日の光が乱反射して熱を上げていく。路面がつるりとしている。見慣れていない吹雪道で、懐かしさのこもった朝日が私とこの街を照らす。
 この光景を、忘れることができるのだろうか。夜明けのその瞬間がやってきて、朝日の強さが最大になって吹雪が昇華されていく。新宿のビルが光と吹雪で音を立てる。路面を揺らす正体は私にはわからない。吹雪が戻って私の濡れた髪を吹いていく。遅れてやってきた匂いの正体も、私にはわからない。わからないことがこんなにも清々しいのか。雪原の表面が朝日で溶けて、さらに吹雪がその上に積もって、私は先に進めない。
 
 朝日の光景を消したのはスマホの通知だった。京王線は始発も運休になるらしい。京王線の西側はこの日、昼過ぎまで完全に閉鎖されることになる。その通知を見た私はやはり歩いて帰るしかないと朝日の範囲を過ぎて、微かに歩道の様子を見せるそこをまっすぐ、西に向かった。

 幸い、そのあと吹雪は弱まって、私は家にたどり着いた。なんどか滑って足首を痛めたらしいが、足首の痛みはその日の昼過ぎまで、朝日の圧倒が隠していた。
 家に着いて雪を落とし、バスタオルで体を拭いたら風呂に入らず、まずはスケッチブックを開いた。あの朝日を描いてみたくなったのだ。しかし張り付いたスケッチブックを開くことに失敗して、鉛筆書きの駅前の風景は二度と見ることはできなくなってしまった。もう一度描こうとも思ったが、朝日と吹雪を想像しても一向に黒鉛は進まなかった。あの風景を絵画的に思い出す力が、私にはないらしかった。
 それから、絵を描くことをやめてしまって、こうして文を書いている。
作品名:夜明け 作家名:晴(ハル)