夜明け
厳しい冬の帰り道だった記憶がある。雪慣れしていない路面と街並みに体が緊張していたため、私は数回滑りながら早朝の家に着いた。右足首を少し痛めた記憶もある。
その頃、私は絵を描くことに興味を持ちだしていて、ちょうど都内の初雪の日からのことだった。その日は三回目の雪日であったため、降雪に対する興奮が日常の疲労に負けだした頃で、終電間際に京王線が運休になったことに対し、諦めのような気持ちでいっぱいになっていた。先頭車両の灯りが吹雪の中空しく灯り、乗客は運休のアナウンスと同時にJR線へ移動していた。私は暖かい椅子の上で浅い眠りについていた。車両内のこもった暖房の匂いが外へ抜けていき、眠りながらもその移り変わりを感じていた。
車掌が私を起こして、JR線の振替輸送を提案してきたが、私の最寄り駅は京王線しかなく、中央線では帰宅ができないため困り果てながら特急電車から降車して一人、吹雪をしのぐことだけ考えていた。架線に触れた吹雪から焼ける匂いがした。焼けていたのは架線ではなく付近の焼き芋屋のものだったことは改札を出てから知った。
私と同様に帰宅困難になった人間が改札付近でタクシーを呼んでいるが、どのタクシーも東京の西側へはいけないと断っているらしく、タクシー待ちの列は混沌としている。風が強いので傘は役に立たず、多くの人間が雪まみれになりながらどうしようもない時間を流している。
雪をしのげるぎりぎりの位置には人間が集まっていて、寒空の下、人間の体温からか微かに暖かい。私もその塊の隅に向かって、スマホで近場のホテルを探していた。……どこも満室だという。隣の老婆たちが話している。老婆たちは近くの友人宅に向かうという。
どうしたものかと立ち尽くす私たちの前を幾人もの人間たちが過ぎていき、その多くは吹雪と凍結した路面に慣れていない様子で、つるりと滑る様子も散見された。西に向かう人々だけが行き場を失って人間の塊を継続している。
そのうち、京王線の駅員が私たちを不憫に思ったのか、駅構内の社員休憩所を解放したらしく、塊のほとんどは改札を抜けていった。吹雪は激しさを増して、私たちの生存可能範囲をさらに縮めていく。点滅している信号機以外の色が吹雪の向こうに遠くなった。横断歩道はもう雪の下らしい。
さて、こうも厳しい吹雪のことばかり連ねているわけだが、その時の私は前述の諦めの感情を保ちながら、これは良いテーマだと駅構内の休憩所に向かおうとしなかった。人間の温度が消えてさらに冷え込んでいくわけだが、コートの中は逆に温度を高めている。
――無表情で興奮していた。経験したことのない猛吹雪というものは、日常の風景を打ち壊し、日常の街を非日常につくりかえてしまう。絵にするならこういう風景だろうに!
買ったばかりのスケッチブックは吹雪にやられてしまって鉛筆の滑りが悪い。時々マヨ追い込んできた雪の粒がさらに水気を足して、黒鉛がじわりと滲んでしまう。これはこれで、ありかもしれないと思いながら人気が減っていく駅前を確かに書き進めていた。
寒いはずなのに、素肌をむき出しの右手は止まらない。コートの中は妙な暖かさを保っている。三ページ目のスケッチブックはおおよそ終わりを見せていた。こうも白いと鉛筆で描く範囲が狭い。……私に絵の技術があれば違うのだろうが。
まだ絵に興味を持ちだした頃だったので、この時の絵も以前見たある漫画の一風景を思い出しながら、そこに目の前にあるものを書き足すような、つまり「写し書き」の要領でしかなく、書き終わった絵を見ながら「ああ、やっぱり」と落胆している。確か子供の頃はこれで満足していて、むしろ写実的な? 絵こそすべてだとか思っていたなと思い出しながら、スケッチブックを閉じた。水気が紙と紙を張り付けてしまって、きっと黒鉛がさらに滲みだしてしまっている。そのまま鞄にしまった。辺りには誰も残っていなかった。
そのあと、やはりどうしようもないということで駅構内の休憩所に向かった。Suicaをタッチしない入場に少しこそばゆくなりながら、休憩所の扉を開けた。……こもった暖房の匂いがした。ストーブの上でやかんが焼かれている。
第一に右手を暖めた。ほとんどの人間は随分前に休憩所に入っているので、ストーブの近くは空いていた。やかんが沸騰している。水が残り少ないのだろう。久しぶりに聞いたその音はいつかの記憶と同じものだった。思い出せないくらい薄らいでしまった故郷のある日。かじかんだ右手が急激な温度変化に耐えている。暖房が強すぎるのか呼吸が若干、苦しい。
多くの人間は背中を丸めながら椅子の上で寝ていた。そんなに口を開けて寝ていたら喉が渇いて風邪をひくぞという男もいた。いくつかいびきも響いている。駅員はさらに気を使って照明を一つだけ残して休憩室は夜明けを待つ準備を整えていた。起きている人間たちは灯りが残った箇所に集まって話をしているらしかった。私は灯りの方に行くことにした。面白い話の一つでも聞けそうじゃないか?
小声の隙間を縫って、私は空いている椅子に座った。横には友人宅に向かうと話をしていた老婆の片方がいた。
「あらさっき横にいたわね」
老婆は私を見てすぐに話しかけてきた。他の人間を起こさないよう小声であることは変わりなかった。
「どうも。聞こえてしまっただけですが、……友人宅に向かうのではなかったのですか」
「ああ、もう一人は行きましたよ。タクシーで。でも私はね、その友人とは仲が悪いというか、どうにも家にお邪魔する間柄じゃないのよ。だからこうしてね」
老婆はハシモトというらしい。普段は蜜柑農家をしているらしく、「いつも鞄に入れてるの。ひとついかが?」と蜜柑をくれた。周りの人間たちも受け取っているらしかった。
「ここらのコンビニとかは吹雪でダメらしいわ。駅員さんも大変ね。みんな帰れないらしいわ」
私はもらった蜜柑を両手で包むように持ちながら、ハシモトさんの話を聞いていた。他の人間もハシモトさんの話を聞いているだけらしく、休憩室に響く小声のほとんどはハシモトさんのものだったらしい。
ハシモトさんの話は三割誇張されたような、煌びやかで詩的なものと些細な日常、特に農家の困りごとのような話で構成されていた。他の人間たちは時々、そうとか、ああ、とかそうですねだとか言葉を連ねていた。多くは蜜柑を食べ終えているので、他にやることがないが、寝ることもできないという様子だった。手の中の蜜柑を食べてしまうと私も同じようになってしまう気がして、一向に食べられない。
しかしそれが良かった。この暖まり切った休憩室で、蜜柑だけがみずみずしい吹雪の空気を覚えているようで、掌だけが冷たく気持ちが良い。やかんの音とハシモトさんの小声が響く中で、私だけが楽しみを抱えているという状況もまた、良い。時々、蜜柑を鼻に近づけて匂いを嗅ぐだけで、この夜明け待ちの退屈な時間が華やかなものになっていく。
「……あら、蜜柑お嫌いでした?」
一向に食べない私を見て、ハシモトさんが聞いてきた。
「いえ。むしろ箱買いするくらい好きです。箱の底の方でカビてしまうこともありますが」