雑草の詩 4
常のように平静を装いながらも、内心は浮き浮きする子供のように手早く仕事を片付けると、彼は我が家へと急いだ。しかし、そこには真っ先に手を取り合い喜べる筈の妻の姿も、幸恵の姿までも見つけることはできなかった。
8
ウインドー越しに眺める外の風景には、冬の名残りと春の訪れとが認められた。行き交う人々は日の温和しさと風の冷たさに戸惑いながら、ポケットに両手を突っ込んだまま背中を丸めて歩く人、ニコヤカに春の気配を感じてアチコチ楽し気に見渡しながら歩く人、様々に舗道を閉めていた。
蒼々とした葉をつけた木々や、まだまだ裸のままの木々が両脇に並んでいる通りに面して喫茶店は建ち、その歩道に面した席に、真悟の母と幸恵は向かい合い座っていた。
軽い音楽と賑やかな笑い声、煙草の煙が混じり合って、春の陽気はこの店の中をも明るくしていた。しかし、そんな店の雰囲気とは裏腹に、春の陽射しを一杯に浴びながらもなぜか沈痛な面持ちで黙り込んでいた真悟の母親だった。が、やがて数百年の沈思から解かれた哲人のように、死刑台への階段に足を掛けた死刑囚のように思いつめた表情で、幸恵の前に一通の封筒と小さな包みを並べたのだった。
幸恵は美しかった。
長くしなやかに伸びた黒髪に包まれたその顔には、人は顔はその配置の如何によっては良くも悪くもなるけれど、神様が丹精込めて並べたかと思える程バランス良く全てのものが配置されていた。
眉は細く長く、大きく開かれた瞳の上に形良く生えられている。鼻筋は通り、高くも低くもない鼻は顔の中心に愛らしく置かれ、口元涼しく、薄い唇には知性の香りが漂い、上の歯が多少反り気味ではあるけれど、それが却って可愛らしく見えた。痩せ過ぎかと思える程スラリとしていて、美しい形の胸の他には必要以上のゼイ肉もなかった。
化粧の匂いさえ残ってはいない素肌は、黄金の輝きを放ち、身体を飾るものは何もなかったけれど、たとえ絶世の美女とは言えなくとも、幸恵は百合のような、岩肌にたたずむ白百合のような、そんな女性だった。知的な、しかし内面の優しさや麗しさに讃えられたその顔を目にした時、誰もが安らぎを覚えた。
真悟の母親に連れられてこの喫茶店に入ってから、幸恵は何が何だか訳も分からずにキョトンとした顔をして彼女を見詰めていた。彼の重苦しい表情の原因も不可解だったし、今頃の時間に、それもこんなところへ連れ出されたこともかってないことだった。だが、やがて目の前に差し出された一通の手紙に目を通すことで、全てを理解した幸恵だった。
『息子は無事大学に合格することができました。
これも、全てあなたのお陰だと思っています。
本当に有り難うございました。
黙って、このまま家を出ていってはくれませんか。
息子には二度と逢わないと約束して下さい。
無理な我がままだと思います。
けれど、息子のことを本当に愛しているのなら、
お願いです、
このまま、私の言う通りにして下さい。
僅かですが、ここにお金が用意してあります。
このお金で他の所で幸せに暮らして下さい。
無理は重々承知しております。
恨むなら、いくらでも恨んで下さい。けれどお願いです、
子を思う親の気持ちを分かって下さい。
このまま黙って、真悟の前から姿を消して下さい。
お願いします。』
一瞬、この地上の全てのものが、歪んだ。
音が、色彩が、あらゆるものが弾け飛んだ世界に取り残されて、身体中のありとあらゆる神経を寸断された幸恵は、かろうじて、椅子の背に身体をもたせかけた。それが、彼女にできることの全てだった。
(いつかは、こんな日が来るとは思っていた。遅かれ早かれ、必ずやって来ると)
けれど、真悟と過ごすこの生活は、最早幸恵にとっても疑うことさえできぬものになっていた。
幸恵の心の中に、忘れていた言葉が雷鳴を連れて蘇った。
(出会いは別れの始まり。出会いは、別れを必ず連れてくる)
(そうよ、そうだったんだわ。
私がもし真悟さんの母親だったら、やっぱり同じことを言うに違いないわ)
そう、自分の心に言い聞かせようとしてみても、いくら努力してみても、所詮は無駄なことだった。俯いたまま、幸恵は小刻みにその細い肩を震わせていた。
真悟の母親、彼女とて、自分の残酷な仕打ちに苦しんでいる幸恵を正視することは出来なかった。彼女も女、幸恵の心の内は手に取るように理解することが出来る。けれど、‥‥‥けれど彼女は母親だった。息子の幸福を誰よりも深く願っていると自負している、母親だったのである。
幸恵は立ち上がった。
全身に残された力の全てを寄せ集めて。そして、力の限り、精一杯、恐らく今までに点したどの微笑みよりも、明るく健気な微笑みを、点そうとした‥‥‥。
9
「ただいま!」
家の中はひっそりと静まり返り、真悟を迎えるものの姿はなかった。
「ただいま、お母さん、いないの?ただいま。」
ニコニコと嬉しそうに大声で母を呼びながら、真悟は玄関から居間へと歩いていった。
「なんだ、お父さんもお母さんも居るんじゃないか。どうしたの、ふたりとも。
幸恵さんは?」父母を見つけた彼は、喜色満面、顔中を微笑みにして両親に尋ねた。
薄暗い部屋の中央に置かれたソファーの上に、母は俯いて座っていた。向かい合い腕組みをして立っている父、二人の間には冷たく気まずい空気が漂っていた。
「どうしたの、ふたりとも。」
何も知らない真悟は母の向かい側のソファに腰を下ろし、不思議そうに両親の顔を交互に見やり、そして母に尋ねた。「ねえ、どうしたんだよ、二人とも。何か変だよ。
それより、幸恵さんはどうしたの?何処か出てるの、買い物?」
「真悟、実は、」
父は、瀕死の重病人のように重たい口を開いた。
「幸恵さんには出て行って貰いました。」 俯いたまま小さく、しかし鋭く言い放たれた母の言葉は、氷の刃と化して真悟の身体を貫いた。
「出て行くっ‥‥‥て、どこへ‥‥‥、どこへ行ったの?
出ていくって、まさか‥‥‥まさか。
幸恵さーん!」幸恵の名を幾度も絶叫し、真悟は転げ回らんばかりの勢いで家中に幸恵の姿を探し求めた。
「どこへやったんだ!
幸恵さんをどこへやったんだ!」
天をも突き破らんと、体中を憤怒に撃ち震わせて母親に詰め寄る真悟を組み止めながら、どうにかなだめようと懸命になっている父親、
「母さんを責めちゃあいけない。お前の為に、良かれと思ってやったことなんだ。母さんを責めちゃ、かわいそうだ。
ふたりして探せばいいじゃないか、私も手伝おう。幸恵さんを二人で探し出そうじゃないか、なあ、真悟。
とにかく落ち着くんだ、‥‥‥落ち着いて、」
「畜生ー!」父の束縛から必死で逃れようと、真悟はヤッキになった。
「畜生ー!
馬鹿野郎ー!
誰がこんな家、出て行ってやる!俺も出て行ってやるよ、畜生、離せ!離してくれー!」力の限りでそう叫んだ次の瞬間、スルスルと父の手を擦り抜けた真悟の体は、そのまま床の上に倒れ伏していた。