Silver Spoon
『文哉が生まれる前から高倉を雇っていたのは、結果的には偶然がもたらした幸運だった。文哉の面倒をみられるのは、彼女以外思いつかない』
サエちゃんが病院で話していたことが、ふと頭に浮かんだ。彼女はヘルパーだった。お手伝いとして結城家に入ったのは、一九九三年よりも前の話だ。わたしは棚に目を向けた。
一九九三年から一九九八年までのことは、几帳面なアルバムと手記が残されている。でも、そこからは大きく飛んで、二〇一八年になっていた。表紙が焼けていなくて、まだ新しい。
『文哉が息を引き取った。ほとんど外にも出られず、二十五年の人生を終えた』
わたしは棚にアルバムとノートを全て戻すと、部屋から出た。ドアを閉めるとき、蓋をするような自分の仕草に、息が苦しくなった。兄は、学校から帰って来るわたしと歩美を、二階の窓から見ていたのだ。結城家の、切り離された側から出ることを許されなかった。
両親ならやりかねない。何かを押し殺したような雰囲気は、常にあった。わたしは隣の部屋のドアを開けた。もう分かっていたことだけど、歩美と目が合ったとすれば、この部屋しかない。わたしは窓へ近寄った。兄は、ここから見下ろしていたのだ。怪奇現象なんかじゃなかった。歩美の言う通り、幽霊なんてものは存在しないのだ。わたしは部屋を出て、目にうっすらと浮かんだ涙を空いている方の手で拭った。廊下の空気を吸ったところで、ずっとこだわり続けていたのに、いつの間にかすっぽりと頭から抜け落ちていたことを思い出した。
わたしの耳に聞こえていたあれは、何だったのか?
それに、曲がる方向を間違えた歩美を怒ったぐらいだから、サエちゃんは全部知っているはずだ。絶対に言ってはいけないと、両親から厳しく言われていたのだろうか。
かつて自分のものだった部屋の、裏側にある部屋。ドアを開けると、同じように死んだ空気が流れ出してきたけど、窓は塞がれていた。廊下から差し込む西日だけが、光源になっている。その光が照らすぎりぎりのところに、あちこちに糊の痕が残る『れんらくちょう』が何冊も落ちていて、いい加減なパズルのように、互い違いに積み重なっていた。どれも、本来開くはずの側が糊で封をされていて、白く光っている。そのでこぼこの表面を見る限り、兄が自分でやったのだろう。表紙のほとんどは『ゆうきふみや』と署名されているけど、中にはひまわりのような花の絵が大きく描かれたものもあった。わたしはその山をつつくように崩した。上から四冊目の連絡帳の表紙が一番上に来たとき、思わず目を大きく見開いた。署名の下に小さく『びりやに』と書かれている。これは、十年前のわたしが初めて言い返した言葉だ。
あの日の夜、わたしは兄と会話を交わしていたのだ。
その連絡帳を手に取って、他を元通りに積み上げた。中を開きたいけど、外から糊がつけられているから、上手く開けない。爪でひっかいて少しずつ剥がしていき、ようやく半分が剥がれたところで、わたしは中を覗いた。
『すこしずつ みんなころす』
歪んだ拙い文字を見て連絡帳を落としそうになったわたしは、残り半分を力任せに引き剝がした。手が滑って床に落としてしまい、それを拾い上げたとき、自分の部屋と隣り合わせになっていた壁を見上げてしまった。薄っすらと視界に入っていて、頭では理解していたはずなのに、それを見ることを本能が拒絶していた。
壁には、無数のひっかき傷があった。わたしが聞いていた音の正体。
ノートを鞄に押し込んだとき、玄関のドアが開く音がした。ドアをそっと閉めて、わたしは階段を静かに下り始めた。一階まで辿り着いたけど、そのまま飛び出すことはせず、階段裏に隠れた。金属音がじゃらじゃらと鳴り、鍵が開く音がした。慌ただしい足音が二階へ上がっていくのと同時に、わたしは階段裏から出て、フクロウのロゴがあるドアを抜け、玄関で靴を履くと結城家から飛び出した。
あの、妙な声。兄が、隣の部屋で過ごすわたしに、ずっと伝えたかったこと。
『逃げて』
わたしは早足で歩きながら、鞄の中で揺れる連絡帳を深く押し込んだ。歩美なら、なんて言うだろうか。特に、警察官である兄や両親が見たら。わたしはすでに、この連絡帳を持ってもう一度、歩美と会う約束を取り付けようと思っている。
落とした拍子に開いたページ。兄はこれを書くのに、どれだけの時間をかけたのだろう。
『おれをくすりで おかしくした』
今まで、たったの一秒も人生に存在しなかったはずの存在。それなのに今は、頭の中で兄が続きを話しているように感じる。兄、いや文哉がそれを自分で理解しているということは、可能性はひとつしか考えられない。その続きは、兄の手によって書かれていた。
『ぜんぶさえこがやった』
他人の家族の部品になることを選んだ女が、本当にやりたかったこと。それは、結城家を中から食い殺すことだ。そして先週、ほとんど成功したのだ。だからこそ、わたしに聞いたのだろう。
『梨沙子さんは、これから実家へ戻られるのですか』
最後の仕上げは、子供のころから懐いていたわたし。電車より速いタクシーを選んで、正解だった。さっき二階へ慌てて駆け上がっていった足音がやろうとしていたことは、ひとつしか考えられない。息を整えると、わたしは振り返って二階の窓を見上げた。
中から、サエちゃんが見下ろしていた。
今までに絶対に見せることのなかった、栓が抜けたような笑顔で。
作品名:Silver Spoon 作家名:オオサカタロウ