Frost
「逃げろ」
玲香はよろけながら立ち上がった。真っ暗な中、背中を押された方向へ歩き出すと、真っ暗闇の中に扉が見えた。縋りつきながら体重をかけると、扉はゆっくりと外向きに開いた。外に出た玲香が、まだ体の自由が完全に利かないまま雪の中へ倒れ込んだとき、後ろで封をするように扉が閉まった。玲香は雪の中でもがきながら、立ち上がった。体は思い通りに動かなくても、頭の中は澄み渡っている。玲香は聳え立つ本殿に向かって、叫んだ。
「お父さん!」
萩山は、扉の向こうから追いかけてこようとする声を断ち切り、中へ戻った。自分は、二十五年前のあの日、神社に取り込まれた。はちがしら様の一部として。康夫が意識を取り戻したのは、あの姿になって四日が経った後だったが、最初に目が開いて飛び出した言葉は、今でも覚えている。
『兄貴が、ころさないから』
この集落は、乗ってきた車から財布まで、萩山家に関わる全てを取り込んだ。自分ひとりなら、いつだって勝手に命を断つことができた。それほど簡単なことはなかったように思える。しかし、家族のことを知られている以上、千尋や野瀬家の連中が何を思いつくか、想像もつかないことが起きるような気がして、五十代半ばになる今まで、何もできないままだった。それでも。
また会えるとは思っていなかったが、玲香は立派な大人になっていた。修也に会うことは叶わなかったが、もうやるべきことは決まっている。ここには、積もる話などない。共有したり、受け継いだりできるようなことは、何も。自分が持つ蝋燭に火を灯し、萩山は本堂の中へ足を踏み入れた。手順を崩されたことに抗議するように、万世が顔を上げたのが分かった。彩乃が持ってきた灯油の缶を手に持つと、その中身をひっくり返しながら、萩山は神谷のところまで戻って、言った。
「くたばれ」
蝋燭の火が灯油に引火して畳が燃え上がり、斎藤と、そのすぐ隣に立つ万世と彩乃が火柱に巻き込まれた。神谷の服にまとわりついた炎が康夫に移り、萩山は自分の体の半分以上が炎に巻き込まれたまま、反対側へ逃げようとする千尋を捕まえて、言った。
「あんたもだ」
千尋の目に畏れのようなものが浮かび上がると同時に、萩山から炎が燃え移り、柱に飛び火した。待ち焦がれていたように炎を受け入れ、やがて本殿全体が燃え上がった。
雪に足を取られながら後ずさり、玲香は炎に包まれる神社を見上げた。爆ぜるような音が鳴り、熱気が顔を焼いた。父がいなくなった夜は、とても寒い日だった。布団が足から飛び出して寒かったのに、起きていると思われたくないから、じっとしていたのを覚えている。そしてその大きな手は、布団をかけ直してくれた。
玲香は炎に顔を照らされながら、その場に座り込んだ。煙と火柱が町から通報され、消防車が押し寄せて来る頃には、その炎の勢いは弱まり始めていたが、神社への坂道を駆け上がった消防隊員が、玲香の姿に気づいて最優先で救出したときには、ほとんど消えかけていた。
「何があったんですか」
俯いたままでいる玲香に、火災現場から引き離した消防隊員が言った。玲香は顔を上げて、夜空の下で煙を上げ続ける、黒く朽ちた本殿を見上げた。炎に巻かれて傷だらけになったその姿は、役目を果たしたように穏やかだった。自分を探してここまでやってきた娘が凍えずに済んだことを、見届けたように。
「父に、会いに来たんです」
玲香は、消防隊員の問いかけにようやく答えた。
変わらず守ってくれる、あの大きな手。
わたしが喜んでいても、悲しんでいても、例え怒っていても、いつもそこで。