Frost
三
一九九六年 一月 二十五年前
宿というよりは、すごろくの最初のコマに戻ってきたような感覚だった。萩山は、細い腕でハンドルを回しながら車庫入れをする神谷に向かって、言った。
「ありがとうございました」
神谷はその言葉で集中力を削がれたように、一瞬だけハンドルを回す手から力を抜いた。車体が微かに揺れ、神谷は頭を下げた。
「いえいえ。ハンドルが重くて」
萩山は、その横顔を見ながら思った。神谷は、取材で来ている。カメラやバッテリーといった、機材らしきものも積まれている。しかし、平和な村の取材とはいえ、女をひとりで送り出すものだろうか。
「取材、おひとりなんですか?」
「ええ。毎年やってるので、もう慣れちゃいましたね」
神谷は眼鏡を押し上げながら笑い、ハイラックスのエンジンを切った。降りたときに、萩山は神谷の手元から目を逸らさなかった。鍵束がダウンジャケットのポケットの中へ、無造作に突っ込まれたのが見えた。康夫が後部座席から降り、神谷は引き戸を開けるときに言った。
「お祭りの日までは、靴を逆向きに脱いでくださいね。ここの習わしなんです」
萩山が違和感を隠せないように靴を脱いだままにして上がると、康夫が癖で並べ替えかけて、慌ててやめた。神谷はくすりと笑うと、台所から顔を出した千尋に言った。
「戻りました」
「靴は、ご自由に脱いでくださいね」
千尋が笑いかけ、萩山は頭を下げた。康夫が二階に上がっていこうとするのを。首を掴んでやめさせ、千尋に言った。
「ちょっと集落の中を散歩したいんですけど、いいですかね」
「どうぞ。雪が深いところは、気を付けてくださいね」
千尋が言うと、神谷が一礼して二階への階段を上がっていき、萩山はその姿が見えなくなってから言った。
「神谷さんって、取材で毎年いらしてるんですか?」
「ええ。確か、出版社に入社したのが二十歳のころで。それから四年、祭事は欠かさず」
ある意味、ここ専任の担当だ。萩山は、ずっと気にかかっていたことを思い出した。
「あの、目ざとくて申し訳ないんですけど。宿泊帳、書いたじゃないですか。あれに、神谷さんの名前はなくて」
千尋は、電話の隣に置かれた宿泊帳の方へ視線を向けた。
「お金、頂いてないんですよ。その代わり、記録をしていただいてるということで。集落史の資料は、恥ずかしながら、ほとんどが神谷さんの写真か、記事なんです。今年は忙しいと思いますよ」
そう言うと、千尋は二階を見上げた。萩山はその視線を途中まで追い、言った。
「いつもとは違うんですか?」
「ええ。本祭といって、二十五年に一回しかないんですけど。今年はその年なんです」
千尋は少しだけ頬を紅潮させると、萩山の方に向き直った。
「祭りまでに宴会場で集まるんですが、いかがでしょう。昨日の宴会でお疲れなら、別で夕食を用意しますよ」
萩山は失礼にならない程度の軽いしかめ面を作ると、うなずいた。
「そうですね、弟はああいう場は不慣れで。ちょっと休ませたいです。ありがとうございます」
「お気になさらず」
千尋は笑顔を浮かべた。何事にも動じない芯がどこかに通っていて、それが整った表情に繋がっている。萩山は無意識にその目を見つめていたことに気づき、慌てて逸らせた。
「すみません。二十五年に一回ってのは、何か由来があるんですか?」
「ええ。守り神だった猫を殺してしまって、この集落は、そこから不作になりました。そこから二十五年が経って、とりわけ冬が厳しく、このままでは越せないと思われた年のことです。追い打ちをかけるように、薪を積んでいたひとりが下敷きになって命を落としたんです」
千尋は、歴史の教科書を音読するように、すらすらと語った。萩山が興味を惹かれていることに気づいて、千尋は小さく咳ばらいをした。
「失礼……、それから二日もしない内に、遭難寸前の行商が流れ着きました。それが、野瀬家です。彼らが食料を持っていたことで、集落は命拾いしました」
萩山は、野瀬姉妹の顔を思い出した。集落の窮地を救った命の恩人が祖先。野瀬一家がとりわけ自由に振舞っているように見えるのは、そう言った過去の力関係が、引き継がれているからなのかもしれない。萩山が考えを巡らせていると、散歩に出るのを引き留めていることを思い出したように、苦笑いを浮かべて千尋は言った。
「すみません、長々と」
「いえ、大丈夫です。野瀬家は集落の一員になったんですか?」
「ええ。ただ、子供は彩乃と万世しかいませんので、今の代で終わるかもしれませんが。それは、うちもですけど」
千尋はそう言うと、白く整った歯を見せて笑った。言葉の内容と表情がちぐはぐで、萩山は気圧されるように靴を履き、康夫の首を掴んで外に出た。背中に『いってらっしゃいませ』と声が飛んだが、それすら可能なら避けたいぐらいだった。
ハイラックスの前をやり過ごし、太陽の方角を確認しながら歩く萩山は、康夫に言った。
「ここは、何かがおかしい」
「たのしかった」
「よく見ろ、周りを。さっき出て行くときもそうだけど、何人見た?」
「人はいない」
康夫は、もやのかかった頭の中をかき分けるように、目をしばたたかせながら答えた。萩山はうなずいた。
「そうだろ? 昨日の夜は、まあまあの集まりだったろ。いくら男連中が仕事に出てるからって、こんなに静かなもんか?」
答えが返ってくることは、期待していない。萩山は独り言のように呟きながら、公民館を目指した。上り坂の先にあって、景色がよく見渡せる。少し息を切らせている康夫を壁に寄りかからせて休ませると、萩谷は真っ白に光る木々を眺めた。川もおぼろげに見える。何より、雪の上にタイヤの通った跡が残っていて、橋から大きな道路に出るまでのやや広い道と、学校へ伸びる道、そして公民館までの道の三本が、特に目立った。萩山は、川に沿うように林の中へ伸びていく四本目のタイヤ跡を見つけ、康夫に言った。
「おい、もうちょっと歩けるか」
「がんばる」
萩山は公民館から離れ、滑らないようにゆっくりと坂道を下った。アイゼンのようなものは、全く準備していない。千尋は、何かを伝えていないはずだ。さっきの『二十五年ぶりの本祭』のくだりも最後まで聞いていないし、今もどこかで鳴き声がする。猫の呪いがかかっているはずなのに、追い払わないのはなぜなのか。疑問は次々頭に浮かぶが、確実な逃げ道を見つけるまでは口に出せないことばかりだ。それに、逃げ道が分かれば訊く必要すらない。萩山は、説明のつかない四本目のタイヤ跡の上に立った。川に沿うように、人気のない場所へ続いている。萩山はそのタイヤ跡を辿るように歩き、緩やかにカーブした先に首を伸ばした。目に映ったものを頭が処理しきる前に、言葉が出た。
「やっぱり、あるんだな」
険しいことは確かだが、川に沿うように、林の中へ抜ける道があった。枝が垂れ下がっている上に、カーブミラーも折れ曲がっているが、新しいタイヤの跡は奥まで続いている。
「ヤス、あいつらは嘘をついてる」