悠々日和キャンピングカーの旅:プロローグ(後半)
キャンピングカーの購入に至った経緯を、これまでの趣味の視点で整理した「プロローグ(前半)」に続く後半は、本格的な「キャンピングカーの旅」を始めた「セカンドライフ」に入る前とその直後、そして記録に残しておきたいキャンピングカーの購入前後の内容になる。
■定年退職日までの現役時代の振り返り
現役時代は一企業のみで働いたが、色々な部門や場所でキャリアを積んだ。
新入社員研修後の配属先は、希望どおりの海外工場を支援する部門で、社会人の私がスタートした。海外で生産・販売して、他社と競合するビジネスに興味を持っていたことと、それまで海外を全く知らなかったことからの憧れもあった。
支援先の海外工場には必要に応じて出張するも、日本で仕事をしている時の海外工場は海の向こうにあり、距離や時間差が存在し、隔靴掻痒の一面もあった。しかし、世界中の工場を俯瞰しながら、支援先の海外工場のレベルに合った質と量の最適解を求める幅広い仕事を覚え、所属部門の機能をこなしていった。その間、事業環境変化に対応するため、エンジン設計を経験する機会にも恵まれた。
やがて、新規ビジネスを創造する部門へ異動し、企画立案から特定の海外工場向けの具体的な検討を開始した頃、その部門全員が関連する子会社へ出向することになった。企画中の新規ビジネスがその子会社の経営の一助にもなることから、子会社全体の経営再建に関わる仕事に従事することになった。
その仕事が一区切り付いた頃に、本社の海外工場支援部門に戻ったが、その数年後、担当していた海外工場からの要請で、家族を帯同しての海外赴任となった。これは願ってもないことだった。
そこでの5年間は製造部門のみならず、あらゆることに取り組んだ。たとえば、それまで希薄だった販売計画、更には商品導入計画の立案までも促し、新たな経営計画の策定を始めた。特に、部門別の機能の現状レベルを整理した結果から強化計画を作り上げ、実行していった。一方で、新しいビジネスモデルを企画し、他の海外工場の協力を取り付けて実践していった結果、市場シェアのトップの座を得ることが出来、帰任するまで、その座を譲ることはなかった。
トピックスとしては、赴任国の政府との排ガス規制の交渉で、政府が推進しようとしたあまりにも過剰なレベルの内容の見直しを進言し、業界全体に良い結果をもたらした。また、後に大統領になった当時州知事の要望もあり、技能指導校を設立した。今現在も運営されており、社会貢献につながった。このように、かなり充実した海外駐在だった。
一度、TV出演のオファーがあった。そのテーマは「頑張っている外国人」だったが、下手に目立ってしまうと誘拐の対象になる可能性もあり、丁重にお断りした。そういえば、3年の現地暮らしの後、子供の中学校入学のために家族は帰国したが、ちょうどその頃から治安が悪化し始め、駐在の5年目になる最後の1年間は防弾車に乗っていた。今振り返ると、それはなかなか経験出来ない貴重な体験だった。
プライベートな話題だが、何も分からず海を渡った子供たちは、日本人学校がない赴任先だったため、アメリカンスクールに入った。小学生だった娘の英会話レベルはネイティブに間違われるほどになったが、幼稚園児だった息子は、日本人とは思えないような手振り身振りをしながら、スペイン語や英語を使いこなしていたが、帰国後は使う機会がなかったことで、すっかり忘れてしまった。親としてはもったいないことをしてしまったと悔いている。赤ん坊が言葉を覚えるプロセスはよく知らないが、子供たちは苦労した面もあったと思うが、会話能力の向上速度には舌を巻いた。
公私ともに充実した駐在が終わり、日本に帰任してからの仕事は、本社工場群のひとつの工場の管理と現場運営に就き、真の製造の厳しさを体で覚え、品質改善や原価低減に取り組んだ。加えて、勤務先では珍しい外販ビジネスも開始出来た。
キャリアの最後は、事業戦略部門に席を置き、事業の拡大や強化の企画立案と実行、海外の不採算拠点の再建計画の立案と経営状況の進捗、本社部門および国内外の子会社の中期・年次事業計画立案においては、特に設備投資計画の立案についてはリソースの最適配分のしくみを構築し、それに沿った投資計画立案ガイドの配信、立案された計画の吟味、そして計画実行の進捗に尽力した。
この事業戦略部門と平行して、選抜された若手社員がマーケティングを通じて新規ビジネスを企画する活動の事務局も担当。優秀な若手社員との議論から、会社の将来性を心強く確信した。
そして世の中は全世界的に、新型コロナ感染拡大のパンデミックに入り、感染防止のためのテレワークが始まり、最初は多少の戸惑いはあったが、着実に仕事をこなしていった。
以上の約40年間で、仕事のためのツールはかなり変わった。
たとえば、資料については最初、紙と鉛筆で作成したが、部門に数台設置されたパソコンでの資料作成が始まり、手書きの資料の方が見やすいという声もあったが、今はひとりに1台のパソコンになった。
また海外との通信手段は著しく変化した。最初はテレックス、それがファックスに置き換わり、そしてインターネットのメールに、今ではZOOM等でパソコンのディスプレーで相手の顔を見ながら会話が出来るようになった。その結果、仕事の質は明らかに向上していった。
このように振り返ると、時代の大きな変化の中で、常にベストな結果を求めるために、色々とやってきたという思いがあり、そして、とうとう、人生の区切りとなる定年退職日を迎えることになった。
その前日、コロナ禍の下での退職慰労会はリモート飲み会になった。参加者が多く、4つのグループに分かれ、それぞれのグループに顔を出しながら、明日以降の私の予定等を話したが、事業環境が大きく変わる今後を慮り、少なくとも維持継続、出来れば発展して欲しいと、後輩に託そうとする自分自身に驚いた。
定年退職の日、テレワークが継続されているため職場の5分の1の出席者だったが、不在者にもライブ配信される中、退職の挨拶を行った。企業の総合力は、景気の変動にもよるが、やはり株価で表れるため、「株価を上げてくださいね」というのが、現役の皆さんへの最後の、心からの挨拶になり、頂いた花束を抱え、私の会社人生にピリオドを打った。
■定年退職日までの現役時代の振り返り
現役時代は一企業のみで働いたが、色々な部門や場所でキャリアを積んだ。
新入社員研修後の配属先は、希望どおりの海外工場を支援する部門で、社会人の私がスタートした。海外で生産・販売して、他社と競合するビジネスに興味を持っていたことと、それまで海外を全く知らなかったことからの憧れもあった。
支援先の海外工場には必要に応じて出張するも、日本で仕事をしている時の海外工場は海の向こうにあり、距離や時間差が存在し、隔靴掻痒の一面もあった。しかし、世界中の工場を俯瞰しながら、支援先の海外工場のレベルに合った質と量の最適解を求める幅広い仕事を覚え、所属部門の機能をこなしていった。その間、事業環境変化に対応するため、エンジン設計を経験する機会にも恵まれた。
やがて、新規ビジネスを創造する部門へ異動し、企画立案から特定の海外工場向けの具体的な検討を開始した頃、その部門全員が関連する子会社へ出向することになった。企画中の新規ビジネスがその子会社の経営の一助にもなることから、子会社全体の経営再建に関わる仕事に従事することになった。
その仕事が一区切り付いた頃に、本社の海外工場支援部門に戻ったが、その数年後、担当していた海外工場からの要請で、家族を帯同しての海外赴任となった。これは願ってもないことだった。
そこでの5年間は製造部門のみならず、あらゆることに取り組んだ。たとえば、それまで希薄だった販売計画、更には商品導入計画の立案までも促し、新たな経営計画の策定を始めた。特に、部門別の機能の現状レベルを整理した結果から強化計画を作り上げ、実行していった。一方で、新しいビジネスモデルを企画し、他の海外工場の協力を取り付けて実践していった結果、市場シェアのトップの座を得ることが出来、帰任するまで、その座を譲ることはなかった。
トピックスとしては、赴任国の政府との排ガス規制の交渉で、政府が推進しようとしたあまりにも過剰なレベルの内容の見直しを進言し、業界全体に良い結果をもたらした。また、後に大統領になった当時州知事の要望もあり、技能指導校を設立した。今現在も運営されており、社会貢献につながった。このように、かなり充実した海外駐在だった。
一度、TV出演のオファーがあった。そのテーマは「頑張っている外国人」だったが、下手に目立ってしまうと誘拐の対象になる可能性もあり、丁重にお断りした。そういえば、3年の現地暮らしの後、子供の中学校入学のために家族は帰国したが、ちょうどその頃から治安が悪化し始め、駐在の5年目になる最後の1年間は防弾車に乗っていた。今振り返ると、それはなかなか経験出来ない貴重な体験だった。
プライベートな話題だが、何も分からず海を渡った子供たちは、日本人学校がない赴任先だったため、アメリカンスクールに入った。小学生だった娘の英会話レベルはネイティブに間違われるほどになったが、幼稚園児だった息子は、日本人とは思えないような手振り身振りをしながら、スペイン語や英語を使いこなしていたが、帰国後は使う機会がなかったことで、すっかり忘れてしまった。親としてはもったいないことをしてしまったと悔いている。赤ん坊が言葉を覚えるプロセスはよく知らないが、子供たちは苦労した面もあったと思うが、会話能力の向上速度には舌を巻いた。
公私ともに充実した駐在が終わり、日本に帰任してからの仕事は、本社工場群のひとつの工場の管理と現場運営に就き、真の製造の厳しさを体で覚え、品質改善や原価低減に取り組んだ。加えて、勤務先では珍しい外販ビジネスも開始出来た。
キャリアの最後は、事業戦略部門に席を置き、事業の拡大や強化の企画立案と実行、海外の不採算拠点の再建計画の立案と経営状況の進捗、本社部門および国内外の子会社の中期・年次事業計画立案においては、特に設備投資計画の立案についてはリソースの最適配分のしくみを構築し、それに沿った投資計画立案ガイドの配信、立案された計画の吟味、そして計画実行の進捗に尽力した。
この事業戦略部門と平行して、選抜された若手社員がマーケティングを通じて新規ビジネスを企画する活動の事務局も担当。優秀な若手社員との議論から、会社の将来性を心強く確信した。
そして世の中は全世界的に、新型コロナ感染拡大のパンデミックに入り、感染防止のためのテレワークが始まり、最初は多少の戸惑いはあったが、着実に仕事をこなしていった。
以上の約40年間で、仕事のためのツールはかなり変わった。
たとえば、資料については最初、紙と鉛筆で作成したが、部門に数台設置されたパソコンでの資料作成が始まり、手書きの資料の方が見やすいという声もあったが、今はひとりに1台のパソコンになった。
また海外との通信手段は著しく変化した。最初はテレックス、それがファックスに置き換わり、そしてインターネットのメールに、今ではZOOM等でパソコンのディスプレーで相手の顔を見ながら会話が出来るようになった。その結果、仕事の質は明らかに向上していった。
このように振り返ると、時代の大きな変化の中で、常にベストな結果を求めるために、色々とやってきたという思いがあり、そして、とうとう、人生の区切りとなる定年退職日を迎えることになった。
その前日、コロナ禍の下での退職慰労会はリモート飲み会になった。参加者が多く、4つのグループに分かれ、それぞれのグループに顔を出しながら、明日以降の私の予定等を話したが、事業環境が大きく変わる今後を慮り、少なくとも維持継続、出来れば発展して欲しいと、後輩に託そうとする自分自身に驚いた。
定年退職の日、テレワークが継続されているため職場の5分の1の出席者だったが、不在者にもライブ配信される中、退職の挨拶を行った。企業の総合力は、景気の変動にもよるが、やはり株価で表れるため、「株価を上げてくださいね」というのが、現役の皆さんへの最後の、心からの挨拶になり、頂いた花束を抱え、私の会社人生にピリオドを打った。
作品名:悠々日和キャンピングカーの旅:プロローグ(後半) 作家名:静岡のとみちゃん