Fray
二
「エビデンスは来週でいいぞ。ハードコピーだけ並べといてくれ」
山田の浮ついた声に、高島は思わず振り返った。山田が仕事を急かすことは、あまりない。どちらかというと、時間がかかっても確実な結果を求めるタイプで、せっかちな椎名をたしなめることができる唯一の存在だ。
「はいっ、それなら多少早めに終わりますが……」
高島が言うと、山田はスマートフォンの画面を見つめたまま笑った。
「明日ってか、今日か。予定通り休んでいいよ」
高島は、相撲部屋の弟子のように気合の入った一礼をすると、画面に向き直った。エビデンスの整理をやるまで帰れないのは、山田主任との仕事だと定番だったが、今日は気が変わったのだ。そういうときは、理由を深堀りしない方がいい。
山田は、仕事に戻った高島の後頭部に目を向け、カッターシャツと襟足の隙間でだぶつく首元を見つめた。家で飼っているハムスターのゲージ清掃は時間がかかるから、一匹ずつ外へ出して小さな予備の巣箱に移すのだが、大抵は夏美が昭人を連れて買い物に出かけるタイミングにやる。二人の前では決してできないが、首の後ろ側を掴んで持ち上げると、ハムスターは甲高い声で鳴き叫ぶ。不格好な短い手足で暴れるその姿を、頭の中の『うさぎ』はコンビニ弁当のように食べる。ごちそうには程遠いが、ちょうど清掃のタイミングがまた来ているし、早くとりかかりたい。
思わぬところでリリカと接点ができた。メッセージを見ている限り、初手とは言え、かなり常識的で堅い印象すら受ける。やり取りを繰り返す内に、もっと絵文字が満載の子供っぽい文章が飛んでくると思ったら、全く違った。
今思い返せば、牧田流花と最初にやり取りをしたときも、そうだった。お互いの頭の中を上っ面の文章から読み解く、根気の要るキャッチボール。『なんか、何もかもイヤになってくるんですよね』。それが牧田のお決まりのフレーズで、こちらは頭の中で『だから早く殺してやるって』と答えながら、実際には『上手くいかないときは、続きますよね』と変換していた。
作業に戻り、ハードコピーの枚数と作業工程の項番を合わせ終わったとき、最後にこっちから送ったメッセージから一時間程度が経って、リリカから返信が届いた。
『知り合いに聞いてみたんですけど、もしかしたらクラッシーっていうのは、川沿いの家に住んでる方の知人かもしれません』
山田はそのメッセージを眺めながら、自分にこの情報をもたらしたリリカの顔を頭に思い浮かべた。白い歯が少しだけ覗く笑顔。化粧気はあるが、そこまで濃くない自然な目元に、何より理知的な表情。そして、名刺を持ってきますと言って、ひらひらと去っていったあの後ろ姿。『うさぎ』が歯を鳴らす。その目は真っ赤に血走っている。いや、違うぞ。山田は歯を食いしばった。お前には家族がいる。ハムスター二匹と遊んでいれば、あの目を細めて危機から逃れようとする滑稽な姿で、お前は必ず満足できるはずだ。生餌は必要ない。
もちろん『うさぎ』は食い下がる。事実を考えろ。お前はどうやって生き延びた? 本来治療されるべき異常者が家庭を持てたのは、改心したからではない。単に、牧田を殺した道に防犯カメラがなかったからだ。あったらすぐに捕まっただろう。その時は、そんなことを考えている余裕なんてなかった。当時確信していたのは、確実に誰かに見られたということだけ。川沿いの家に誰かが住んでいるということは、リリカからのメッセージではっきりした。それが『クラッシー』の知り合いというところまで本当だとしたら、今日の午前にメッセージを寄越してきたアカウントも違う意味を持ち始める。
『クラッシーだろ? 同じ奴に殺されたんじゃないの?』
これを送ったのは、おそらく川沿いの家の主だ。
このクラッシーというのがどんな人間かは置いといて、同じ奴に殺された? いやいやいや、お前だよ。何なら、牧田流花を刺したのもお前だ。それなら、竹下早紀だってお前の仕業ってことにならないか?
古い靴箱の中に眠る、戦利品。竹下早紀の懐中電灯と、牧田流花を刺したナイフ。それが廃屋から見つかったら、警察の捜査は川沿いの家で終わる。しかしその場合、この事件は自分のものではなくなる。犯人は別の人間として結論付けられ、記事も当然、そのように編集されるだろう。それは今後のことを考えると、少し勿体ない気もしてくる。一番の心配事は、今まで死んだ餌を与えていた『うさぎ』だ? 餌が何もなくなったら、次は頭の中をかじり始めるのだろうか?
それかあの場所で、もう一人が死んだら? 八年振りに同じ場所で、二十代の若い女が命を落とす。警察が目の前に建つあの家へ聞き込みに行き、何かが見つかるというところは同じだ。竹下早紀と牧田流花の血がそれぞれ残る物証が見つかれば、新しく死んだ一人も、あの家の持ち主が犯人だと疑われるはずだ。
名刺を取りに戻ったときの、ひらひらとした後ろ姿。化粧気はあるが、そこまで濃くない自然な目元に、白い歯が少しだけ覗く笑顔。円環が閉じるように頭の中で考えがまとまり始めたとき、遠くから声が届いた。
「あの……、山田主任?」
高島が少し色の薄くなった顔を向けて、言った。山田は頭の中がずっと空っぽだったように、顔を向けた。
「悪い。考え事してた」
「目だけきょろきょろしてて、怖かったです。うさぎみたいな」
「ははは、誰がうさぎだよ」
山田はそう言うと、サーバとネットワークスイッチのランプを最後にもう一度だけ点検して、うなずいた。
「とりあえず、こんなもんだろ」
夜中一時。後片付けをして社屋から出たときは一時半になっていた。タクシー乗り場で高島を見送ると、山田は誰もいない夜中の国道を歩きながら、ふと思い立ったように足を速めた。早足になり、少しずつその勢いは強まっていって、ついには全力疾走になった。革靴が狂ったように甲高い足音を響かせ、次の交差点まで到達した山田は歩道の終点すれすれで体を止め、息を切らせながら振り返った。止まるスピードはずいぶん遅くなったが、走るスピードは当時とさほど変わっていない気がする。大事なことを思い出した山田は、からからの喉から笑い声を絞り出した。素手では、ただ足が速いだけのオッサンだ。
この手のことには、気合の入った道具が要る。それこそ、人間をバターのように切り刻めるような。
わざわざメッセージを送るためにアカウントを作った朝の自分が、馬鹿みたいだ。楠木は自宅に戻り、二階で天井を眺めながら、自分の精神状態を振り返った。記事が勝手に編集されるリスクもあった。地元民ならではの情報が聞き出せるかと思ったのに、返事はなかった。牧田のように、利害が一致していることを最初から確認できていれば、とんとん拍子で進んだかもしれないが。
胃の中は、食べたばかりの蕎麦と、夕方に飲んだコーラの残り。頭の中は反して、空っぽに感じる。何も思いつかないのではなく、これから忙しくなるから空けておけと、無意識に何かが整理を始めたようだ。もちろん仕事のことだけは、頭に残っている。
明日は十三時から、川本一家の回線速度調整。十五時からは中学校の校長室にテレビを設置。暇な日だ。