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桐生甘太郎
桐生甘太郎
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元禄浪漫紀行(34)~(40)

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第三十四話 江戸の亭主






「カカア天下」。こんな言葉を聞いたことのある人も居るだろう。もちろん、怒った女性というのは物凄く強い。それに、女性に怒られると、男性の方もそれ以上厳しい言い方を続ける気はなくなってしまう。でも、どうやら「カカア天下」の意味は、それだけではないらしいのだ。






これは、俺がおかねさんと祝言をあげて、少ししてからのことだ。

俺はその朝、おかねさんのあとで井戸の水を使って顔を洗い、歯を磨いた。

前から思っていたんだけど、江戸の人はすごく綺麗好きだ。朝はまず掃除をするし、歯磨きもするし、お風呂も頻繁に入る。まあ、湯屋に行くのは半分遊びみたいなものだし、特に江戸っ子と呼ばれる人たちは、主義のために入っているような部分もあるけど。

俺はほとんど歯ブラシと変わりのない見た目の「房楊枝」に、「磨き砂」を付けて歯をこすり、ハッカのようなスッとした香りで口をすすぐ感覚を楽しんでいた。そして、流しに用済みの水を流す。

“次のどぶさらいはいつだったかな、俺もちゃんと働かないと…”



などと考えていると、いつかのように後ろから誰かが俺をこっそり俺を呼んだ。

「秋兵衛さん、秋兵衛さん」

でも、振り向いた時に俺を木戸の外から呼んでいたのは、大家さんだった。

「おはようございます。どうかしましたか」

俺は急いで手拭いで顔と手を拭い、木戸の手前に居た大家さんのところへ走り寄った。

「おはよう、いや、おかねさんに見つからないうちに手短に用件だけ済ませるがね…」

「はあ…」

「お前さん、この間から晴れて亭主となったんだから、心得なくちゃいけないよ」

「は、はい」

俺は、「亭主として頑張れ」と言われるのだとばかり思っていた。それにしても、こんなふうにこっそり言われるなんて変だなとは思っていたけど。

「おかねさんは自分でだいぶの稼ぎを持っている。そして、お前さんは元は文無しだったわけだ。失礼なことを言ってしまってすまないが、これは本当のことだ」

「はい…」

なんだか俺は、嫌な予感がした。ここから先、俺が勇気づけられるような話なんかなさそうな気がして。

「だから、おかねさんはお前さんと別れても、暮らしていくのに困ったりなんてしない。つまりお前さんは、いつ別れても困らない、そんな亭主なんだ」


“大家さん、それ、わざわざ言います…?”


俺はいきなり目の前を真っ黒いペンキでベタッと塗りつぶされたような気になった。そして思わずうつむいてしまった。

「だから、いつもよく気をつけてあげて、いきなり三行半を書かされることのないようにしなさい。お前さんはそれをもし書いたら、次の縁もなくなってしまうし、また文無しで放り出されるかもしれないんだから」

大家さんは俺に追い打ちを掛け、そのあとで「じゃあ、早く家に戻りなさい」と言った。

「はい、ありがとうございました」

俺はそう返事をしておじぎをし、家に戻った。


家に戻るとおかねさんは見台に置いた譜面を険しい顔つきでめくってお稽古のことに集中しているらしかったけど、俺の気配に顔を上げて、「どうしたい」と声を掛けてくれた。

「い、いえ、なんでもありません。お米を炊きますから…」

「そうかい」

いつの間にか、朝の炊飯はまた俺の役目に戻っていた。それにも気づき、正直に言うと泣きそうだった。







ある夕焼けの江戸を、俺はふらふらと歩いていた。それは漬物屋と豆腐屋からの帰りで、帰ったらおかねさんと夕食を食べるはずだった。

でも、俺の頭には、その数日前に大家さんから言われた、「いきなり三行半を書かされる」という言葉が渦巻いていて、とても前から歩いてくる人を気にしている余裕がなかった。

「イテッ!」

不意に俺は誰か背の高い男の人にぶつかってしまい、少し後ろによろめいた。

「す、すみません!」

怖かったので顔も見ないですぐに頭を下げたけど、ぶつかった相手はなんと、栄さんだった。

「おろぉ?こんなとこで何してんでい、秋兵衛さん」

栄さんは俺を見て怪訝そうな顔をしていたが、俺は考え事からなかなか抜け出せず、どうやら心細そうな顔でもしていたのか、栄さんはそれを笑い飛ばしてくれた。

「なんでぃ、もう捨てられたかよぉ、旦那」

俺はそれを聞き、一気に不安になって栄さんの袖に両手でしがみつき、「めったなことを言わないでください!」と叫んでしまった。

「落ち着け、落ち着けって。往来でそんな声出すもんじゃねえ、人が見るじゃねえかよ」

栄さんは俺の手を取って下げさせ、俺に顔を近づけて小声でそう言い聞かせる。そして、周囲を見回してから下げていた頭を俺より一つ上へとまた戻した。

俺は、その場で一瞬だけ考える。


“そうだ、この人なら、生粋の江戸っ子のようだし、おかねさんがどう考えるか…わかるんじゃ…”


そう思った時、俺はもう一度叫んでいた。

「栄さん!少し聞いて頂きたいお話があります!」

「ああわかった、わかったよ!おめえは叫ばなくちゃ話ができねえのか!」