山登り・身体・感覚
山登り・身体・感覚
1、膝の思い出
40代前半、草野球で膝を痛めた。ショートを守っているとき、左側に飛んできたゴロの打球を取ろうとして左に動いた瞬間転倒し左膝の外側を地面に打ち付けてしまった。強打したという感覚はなく、痛みもさほど強くはなかった。しかし、なんとなく膝が抜けたような感覚で踏ん張りがきかなくなった。なんとかゲームの終了までプレイはできた。事の重大さを知ったのは翌日の朝である。左膝は腫れ、曲げようとすると強い痛みが出た。腫れの内側では水が溜まっているようで押さえるとブヨブヨした。その日は職場の移転に向けての整理作業を始める日で休むことはできなかった。僕は引っ越しの責任者になっていたからである。とりあえずシップだけして曲がらぬ膝を棒のようにして歩きながら不要物の処分作業を行った。その後も痛みと不自由さをこらえながら病院にも行かず仕事を続けた。不養生のせいか腫れや痛みが感じなくなるまで長くかかった。痛みがなくなっても膝に感じる違和感はなかなか消えず山登りからも遠ざかっていった。
膝の違和感が薄れていくにしたがい、逆に山への欲求が高まってくるものである。8月の下旬、近場の山で少し足慣らしをした後、行ってみたかった南八ヶ岳を1泊2日で計画した。美の戸口から赤岳鉱泉泊、翌日、硫黄岳、横岳、赤岳を縦走するものだった。そこそこの距離と高低差を歩く日程だ。赤岳鉱泉では夜中に他の登山者に顔を踏まれたりしていい思いはしなかったが、天気と足取りはよかったと記憶している。硫黄岳の爆裂口の断崖を恐る恐る覗き込んだ。北の天狗方面や南の赤岳方面も見通せた。横岳を越え赤岳山頂への急登にかかる頃、ガスが一帯に湧いてしまい山頂からの展望はなかった。赤岳からは文三郎道を下ったのだが、その下りはじめに左足で浮石を踏んでしまった。グリッと膝がねじれるのを感じた瞬間、ズキンと痛みが走った。やってしまった!と内心うろたえた。下りはまだまだ長いのだ。恐る恐る左脚に体重をかけていき、痛みの具合を測った。幸い強い痛みは出なかった。しかし、膝が抜けているような違和感が強かった。もう一回ぐねるとまずいことになるかもしれないと以後の下山はできるだけ左足に体重をかけないように慎重に下った。予定より時間はかかってしまったが無事自力で下山できたことにほっとしたものであった。
それから数年後、膝の痛みや違和感はほとんどなくなっていた。今度は燕岳から槍ヶ岳の縦走を企てた。初めての北アルプス表銀座だ。これも2泊3日での健脚行程。夜行列車で早朝に穂高駅に到着、燕岳登山口まではバスに乗り継ぎ、合戦尾根を燕山荘まで登る。合戦尾根は急登で有名だが意外と登りやすい道であったと思う。その日のうちに燕岳山頂を往復して燕山荘に宿泊。燕山荘は玄関の外に畦地梅太郎作の石の像、屋内に版画が数枚、主人のアルプスホーンの演奏が記憶に残っている。翌日は大天井岳、東鎌尾根のヒュッテ大槍まで。この行程がアップダウンを繰り返す長い道のりであった。翌日起きてみると左ひざに軽い痛みがあった。2日間の疲労で軽い炎症が起きていたのだろう。そこで左膝にテーピングをすることにした。テーピングの仕方は一応予習していたが実際にするのは初めてのことである。槍山頂を往復し肩の小屋のテラスで一服したのち飛騨側を新穂高に向けて下り始めた。左膝を固定しているのでペースは遅かったと思う。しばらく下ったところで僕より大きなザックを担いだ女性に越されてしまった。悪い癖が出てしまった。負けてはならじと女性の後をスピードアップして追った。女性のスピードは落ちない。記録でも計っているのか、それとも新穂高でのバス時間に間に合わせようとしているのか、というほど早い足取りだった。少しずつ女性との距離が開いていく度に僕も歩く速度を速めた。そんなことを繰り返していた時、石の上で左足を滑らせてしまった。尻もちをつくまいと重心を前に持っていきながらしゃがむ格好になった。その時、左ひざの上部がブチっと鳴った。すぐにピリッとした鋭い痛みが腿の表面に感じた。姿勢を立て直し近くの岩に腰を掛け恐る恐るズボンの裾をまくってみると、腿のテーピングしたところの皮膚が裂けている。弾力のないテープで固定していたので、しゃがんだ拍子に皮膚の表面を伸びる限界を超えて引き裂いてしまったのだ。後悔も後の祭り。いらぬ意地が招いた負傷だ。幸い膝内部の受傷はなかったのでヒリヒリする皮膚の痛みだけを我慢しながら下った。遥か下方を女性は変わらない足取りで下っているのが見えた。すっかりと意気地をなくした僕はマイペースを心掛け新穂高まで下った。新穂高では、入ると決めていた温泉に浸かった。もちろん膝の傷のことがあるのでためらいはあったがここに来れば入らずには帰れないと決心し入ることにした。当時の新穂高にはロータリーのバス停の後方に無料の温泉があった。新穂高に下りる山行の時は必ず浸かって帰ったものだ。腿の傷はピリッと沁みたが我慢をしながら熱い湯に浸かったことが懐かしい。
50代半ばのこと。突然左膝が強く痛み、歩くのさえ困難な状態になった。仕事を半日休んで整形外科を受診した。膝が専門と言う若い男の医者はレントゲンを見てすぐに断言した。「変形性膝関節症です」 続けて「この間の軟骨がすり減って、内側で骨の角と角が当たっているでしょう。痛みが強くなればヒアルロン酸を注射することもできますが、数か月したらまた痛くなります」
「治らないんですか」
「治りません」
「山登りをするんですが駄目でしょうか?」
「不安定な動きが膝に働くのでよくはないです。走るのもペケ、ジョギングは三角、水泳やプール内の歩行は丸です」
残酷な宣告だった。大げさながら、「わが青春も終わった」と落胆した。「青春」などとは、今や死語に近い言葉だし、自分でも気恥ずかしさを感じる言葉ではあるが、その時はまさにこの言葉が浮かんだのは確かなことだ。その日以後しばらくは山どころではなかった。仕事は何とかこなした。しかし気持ちの落ち込みは晴れなかった。野球での打撲が事の始まりだが、長い介護労働による負荷や登山のツケが溜まったせいなのだろう。仕方がないこととあきらめるしかない、そう思っていた。
1、膝の思い出
40代前半、草野球で膝を痛めた。ショートを守っているとき、左側に飛んできたゴロの打球を取ろうとして左に動いた瞬間転倒し左膝の外側を地面に打ち付けてしまった。強打したという感覚はなく、痛みもさほど強くはなかった。しかし、なんとなく膝が抜けたような感覚で踏ん張りがきかなくなった。なんとかゲームの終了までプレイはできた。事の重大さを知ったのは翌日の朝である。左膝は腫れ、曲げようとすると強い痛みが出た。腫れの内側では水が溜まっているようで押さえるとブヨブヨした。その日は職場の移転に向けての整理作業を始める日で休むことはできなかった。僕は引っ越しの責任者になっていたからである。とりあえずシップだけして曲がらぬ膝を棒のようにして歩きながら不要物の処分作業を行った。その後も痛みと不自由さをこらえながら病院にも行かず仕事を続けた。不養生のせいか腫れや痛みが感じなくなるまで長くかかった。痛みがなくなっても膝に感じる違和感はなかなか消えず山登りからも遠ざかっていった。
膝の違和感が薄れていくにしたがい、逆に山への欲求が高まってくるものである。8月の下旬、近場の山で少し足慣らしをした後、行ってみたかった南八ヶ岳を1泊2日で計画した。美の戸口から赤岳鉱泉泊、翌日、硫黄岳、横岳、赤岳を縦走するものだった。そこそこの距離と高低差を歩く日程だ。赤岳鉱泉では夜中に他の登山者に顔を踏まれたりしていい思いはしなかったが、天気と足取りはよかったと記憶している。硫黄岳の爆裂口の断崖を恐る恐る覗き込んだ。北の天狗方面や南の赤岳方面も見通せた。横岳を越え赤岳山頂への急登にかかる頃、ガスが一帯に湧いてしまい山頂からの展望はなかった。赤岳からは文三郎道を下ったのだが、その下りはじめに左足で浮石を踏んでしまった。グリッと膝がねじれるのを感じた瞬間、ズキンと痛みが走った。やってしまった!と内心うろたえた。下りはまだまだ長いのだ。恐る恐る左脚に体重をかけていき、痛みの具合を測った。幸い強い痛みは出なかった。しかし、膝が抜けているような違和感が強かった。もう一回ぐねるとまずいことになるかもしれないと以後の下山はできるだけ左足に体重をかけないように慎重に下った。予定より時間はかかってしまったが無事自力で下山できたことにほっとしたものであった。
それから数年後、膝の痛みや違和感はほとんどなくなっていた。今度は燕岳から槍ヶ岳の縦走を企てた。初めての北アルプス表銀座だ。これも2泊3日での健脚行程。夜行列車で早朝に穂高駅に到着、燕岳登山口まではバスに乗り継ぎ、合戦尾根を燕山荘まで登る。合戦尾根は急登で有名だが意外と登りやすい道であったと思う。その日のうちに燕岳山頂を往復して燕山荘に宿泊。燕山荘は玄関の外に畦地梅太郎作の石の像、屋内に版画が数枚、主人のアルプスホーンの演奏が記憶に残っている。翌日は大天井岳、東鎌尾根のヒュッテ大槍まで。この行程がアップダウンを繰り返す長い道のりであった。翌日起きてみると左ひざに軽い痛みがあった。2日間の疲労で軽い炎症が起きていたのだろう。そこで左膝にテーピングをすることにした。テーピングの仕方は一応予習していたが実際にするのは初めてのことである。槍山頂を往復し肩の小屋のテラスで一服したのち飛騨側を新穂高に向けて下り始めた。左膝を固定しているのでペースは遅かったと思う。しばらく下ったところで僕より大きなザックを担いだ女性に越されてしまった。悪い癖が出てしまった。負けてはならじと女性の後をスピードアップして追った。女性のスピードは落ちない。記録でも計っているのか、それとも新穂高でのバス時間に間に合わせようとしているのか、というほど早い足取りだった。少しずつ女性との距離が開いていく度に僕も歩く速度を速めた。そんなことを繰り返していた時、石の上で左足を滑らせてしまった。尻もちをつくまいと重心を前に持っていきながらしゃがむ格好になった。その時、左ひざの上部がブチっと鳴った。すぐにピリッとした鋭い痛みが腿の表面に感じた。姿勢を立て直し近くの岩に腰を掛け恐る恐るズボンの裾をまくってみると、腿のテーピングしたところの皮膚が裂けている。弾力のないテープで固定していたので、しゃがんだ拍子に皮膚の表面を伸びる限界を超えて引き裂いてしまったのだ。後悔も後の祭り。いらぬ意地が招いた負傷だ。幸い膝内部の受傷はなかったのでヒリヒリする皮膚の痛みだけを我慢しながら下った。遥か下方を女性は変わらない足取りで下っているのが見えた。すっかりと意気地をなくした僕はマイペースを心掛け新穂高まで下った。新穂高では、入ると決めていた温泉に浸かった。もちろん膝の傷のことがあるのでためらいはあったがここに来れば入らずには帰れないと決心し入ることにした。当時の新穂高にはロータリーのバス停の後方に無料の温泉があった。新穂高に下りる山行の時は必ず浸かって帰ったものだ。腿の傷はピリッと沁みたが我慢をしながら熱い湯に浸かったことが懐かしい。
50代半ばのこと。突然左膝が強く痛み、歩くのさえ困難な状態になった。仕事を半日休んで整形外科を受診した。膝が専門と言う若い男の医者はレントゲンを見てすぐに断言した。「変形性膝関節症です」 続けて「この間の軟骨がすり減って、内側で骨の角と角が当たっているでしょう。痛みが強くなればヒアルロン酸を注射することもできますが、数か月したらまた痛くなります」
「治らないんですか」
「治りません」
「山登りをするんですが駄目でしょうか?」
「不安定な動きが膝に働くのでよくはないです。走るのもペケ、ジョギングは三角、水泳やプール内の歩行は丸です」
残酷な宣告だった。大げさながら、「わが青春も終わった」と落胆した。「青春」などとは、今や死語に近い言葉だし、自分でも気恥ずかしさを感じる言葉ではあるが、その時はまさにこの言葉が浮かんだのは確かなことだ。その日以後しばらくは山どころではなかった。仕事は何とかこなした。しかし気持ちの落ち込みは晴れなかった。野球での打撲が事の始まりだが、長い介護労働による負荷や登山のツケが溜まったせいなのだろう。仕方がないこととあきらめるしかない、そう思っていた。