やさしいあめ8
『笑顔』
ここで働きはじめて三年。半年前からバイトで入っている青年のことが気になる今日この頃だ。
飯田亮太くん、十九歳。大学生。十九だと言うのだけれど、どう見ても十六やそこいらだ。高校生にしか見えない。しかも、なりたてのピッカピカの高校生って感じ。私服で出勤しているのだけれど、その私服もそんな感じがする。
「飯田くんも読むー?」
忘れ物の手紙を従業員で回し読みしていた。女の子からのラブレターだ。かわいい文字が並んでいて、よしくんのことが好きです。なんて、ここでもらったのだろうか。どんなシチュエーションなのだろう。それはとっくに済ませておいた方がいい段階の気がする。しかも、忘れられてるし。よしくんのことが好きなかなこちゃん、かわいそうに。
「僕はいいですよ」
素っ気ない返事だった。
「遠慮すんなってー」
笑った。
清掃のアルバイト。とは言ってもここはラブホテル。掃除するのは事後の部屋だ。散乱したティッシュや、血の付いたタオル、使用後のコンドームや、下着や、大人のオモチャなんかが落ちている。スカトロプレイが繰り広げられた部屋なんか、うんこまみれで悲惨だ。さすがにそれは社員が掃除することになるのだが、青少年には有害な気がする。いや、有害でしかない。あどけなさが残る飯田亮太くん自称十九歳がいる場所としてものすごく相応しくない気がする。
店長が採用とした理由は分からない。うちの採用条件には、十八歳以上と明記されている。でも、確実に、店長は彼を、十九歳の大学生だとは思っていないだろう。なんとなく、店長の知り合いなのかな、と言う感じはするけれど。
「飯田くんさ、その顔で十九歳とか犯罪だよね」
「童顔なだけで犯罪とか言われても」
「いや犯罪だ。そんなかわいい顔して、どこの馬の骨とも知らぬ男の精液まみれのコンドームを拾うとか、もう犯罪でしかないね」
「ただの掃除です」
「けど、お兄さんは気になってしまうんだよ」
「じゃあ、実は夜になると母に誘われるんです、とか言ったらいいですか?」
「え?」
「冗談ですよ」
「だ、だよね」
飯田亮太は、真顔で冗談を言った。冗談でなかったらそれこそ犯罪だ。
「飯田くん、彼女とかいるの?」
「それっぽいのがいます」
「どんな子?」
「片品さんも見たことありますよ」
「ん?」
「冗談です」
本当に、よく分からない少年だ。いや、青年か。一応、十九歳ということになっているし。
「僕、昔変質者に遭ったんですよ。無理矢理舐めろって言われて、させられて。だから、彼女が舐めようとしてきたときビビりましたよね。そんなことさせていいのかって」
「冗談?」
「はい。でもですね、僕の母親、昔は優しかったんですよね。公園で一緒に遊んだりして。それがいつの間にか、キッチンドリンカー。その内に一日中お酒を手放さなくなって。祖父が母の入院費と学費は出してくれてるんですけど、生活費はないんですよ。家賃も含めて。学費よりそっちを出してほしいんですけど、学業はちゃんとして欲しいってのが祖父の思いで。けど、本末転倒。おかげで働かざるを得ず」
「これも冗談なの?」
「さあ、どうでしょう。もしくは、僕は天涯孤独なんです」
「冗談じゃなかったら怒るよ」
「冗談だったら、じゃなくて? 冗談でそんなこと言うなって。本当にその境遇にある人の気持ちを考えろって」
「いや。冗談じゃなかったら怒りたい。えっと、社会とかを」
「片品さん、良い人なんですね」
「そうだよ。だから、頼りたまえ」
「遠慮します」
「なんでだ」
「だって、片品さん、結婚するじゃないですか」
「まあね。幸せな気分ではあるよね。でもね、だからなんだよ」
「不幸そうな人を見ているのは気分が良くないですか?」
「そうじゃないけど」
飯田亮太は曖昧に笑う。彼はいつもそうやって笑う。
「僕は大丈夫ですよ。割と幸せです。現実、幸せな人がいれば不幸な人もいる。幸せな人から見たら、不幸な人は不幸にしか見えないでしょうけど、その不幸に見える人もそれなりに幸せだと思えるものを持ってます。だから、どうぞ幸せになってください」
「大人だねえ」
「そんなことはないです」
飯田亮太は半年が経っても、一年が経ってもここで働いていた。真面目でよく働く。ただ、職場に馴染もうとはしなかった。こちらから誘っても、曖昧に笑ってやんわりと断る。馴染めないのではない。馴染もうとしない。愛想が悪いわけでも、コミュニケーション能力が低いわけでもなく、けれど一人でいることを好んでいた。人と関わるのを避けているかのようだった。こういう職場だからだろうか。この職場ではなれ合いは必要ない、みたいな。
けれど、彼を心配するよりも、他に気にかけるべきことがある。飯田亮太を気にかけはじめた一年半前とは自分の立場も違う。いまや娘もいる。ここで働き続けるべきかと少し悩んでいた。
休憩に彼を誘って、外階段で煙草をふかした。
「娘がさ、大きくなったとき、お父さんの仕事は、ラブホテルの清掃員ですって、言えるのかなあって」
「ホテルの清掃でいいんじゃないですか」
「嘘は良くない」
「でも、本当のことをすべて包み隠さずいるのが良いとは限りませんよ。少し濁らせていた方が世の中上手く回ります」
「けど、会社員だとか、工場で働いてるとか、そういう普通の仕事なら、自分も胸を張っていられるのかなって。飯田くんも、彼女にバイト先教えたくないでしょ」
「まあ、でも、今はここしかないんで。聞かれたら言うかも」
「言えるの?」
「はい。なんて言うか、変わった子なんで。でも別に聞かれたこともないですけど」
飯田亮太は、曖昧に笑った。またあの笑みだ。煙草をすすめる。彼はそれを手にしない。それが、余計に彼を大人に感じさせる。
「あーあ。ぼくは子供だなあ」
「大人でしょう。娘さんもいるんだし。煙草も吸ってるし」
「煙草は関係ないよ。十七からだし。それに、子供がいれば大人ってわけじゃないんだよ」
「大人になってもらわなきゃ困ります」
「冷たいなあ」
「僕、就活中なんです。胸が張れないなら、片品さんも、片品さんが胸を張れると思う仕事に転職したらどうですか?」
「たとえば?」
「それは知りませんよ。自分で考えてください」
「飯田くんはなんになるの?」
「普通に会社員になろうと思ってます」
「なれそう?」
「なります」
「強いね」
「そうありたいので」
飯田亮太は、この一年半ですっかり大人の顔になった。それは一年と半年分の年月以上に。今なら十九歳に見えなくもない。いや、一応、いまは二十歳そこそこという設定のはず。
けれど、未だにこの青年のことがよく分からない。どうして、バイト先をここにしたのかもだし、まず彼の私生活がまったく見えてこなかった。ここにいる、テキパキとよく働くラブホテルの清掃員、飯田亮太しか知らない。彼にとって、ここは単なるバイト先で、つながりを求める場所ではないのかもしれない。
ここで働きはじめて三年。半年前からバイトで入っている青年のことが気になる今日この頃だ。
飯田亮太くん、十九歳。大学生。十九だと言うのだけれど、どう見ても十六やそこいらだ。高校生にしか見えない。しかも、なりたてのピッカピカの高校生って感じ。私服で出勤しているのだけれど、その私服もそんな感じがする。
「飯田くんも読むー?」
忘れ物の手紙を従業員で回し読みしていた。女の子からのラブレターだ。かわいい文字が並んでいて、よしくんのことが好きです。なんて、ここでもらったのだろうか。どんなシチュエーションなのだろう。それはとっくに済ませておいた方がいい段階の気がする。しかも、忘れられてるし。よしくんのことが好きなかなこちゃん、かわいそうに。
「僕はいいですよ」
素っ気ない返事だった。
「遠慮すんなってー」
笑った。
清掃のアルバイト。とは言ってもここはラブホテル。掃除するのは事後の部屋だ。散乱したティッシュや、血の付いたタオル、使用後のコンドームや、下着や、大人のオモチャなんかが落ちている。スカトロプレイが繰り広げられた部屋なんか、うんこまみれで悲惨だ。さすがにそれは社員が掃除することになるのだが、青少年には有害な気がする。いや、有害でしかない。あどけなさが残る飯田亮太くん自称十九歳がいる場所としてものすごく相応しくない気がする。
店長が採用とした理由は分からない。うちの採用条件には、十八歳以上と明記されている。でも、確実に、店長は彼を、十九歳の大学生だとは思っていないだろう。なんとなく、店長の知り合いなのかな、と言う感じはするけれど。
「飯田くんさ、その顔で十九歳とか犯罪だよね」
「童顔なだけで犯罪とか言われても」
「いや犯罪だ。そんなかわいい顔して、どこの馬の骨とも知らぬ男の精液まみれのコンドームを拾うとか、もう犯罪でしかないね」
「ただの掃除です」
「けど、お兄さんは気になってしまうんだよ」
「じゃあ、実は夜になると母に誘われるんです、とか言ったらいいですか?」
「え?」
「冗談ですよ」
「だ、だよね」
飯田亮太は、真顔で冗談を言った。冗談でなかったらそれこそ犯罪だ。
「飯田くん、彼女とかいるの?」
「それっぽいのがいます」
「どんな子?」
「片品さんも見たことありますよ」
「ん?」
「冗談です」
本当に、よく分からない少年だ。いや、青年か。一応、十九歳ということになっているし。
「僕、昔変質者に遭ったんですよ。無理矢理舐めろって言われて、させられて。だから、彼女が舐めようとしてきたときビビりましたよね。そんなことさせていいのかって」
「冗談?」
「はい。でもですね、僕の母親、昔は優しかったんですよね。公園で一緒に遊んだりして。それがいつの間にか、キッチンドリンカー。その内に一日中お酒を手放さなくなって。祖父が母の入院費と学費は出してくれてるんですけど、生活費はないんですよ。家賃も含めて。学費よりそっちを出してほしいんですけど、学業はちゃんとして欲しいってのが祖父の思いで。けど、本末転倒。おかげで働かざるを得ず」
「これも冗談なの?」
「さあ、どうでしょう。もしくは、僕は天涯孤独なんです」
「冗談じゃなかったら怒るよ」
「冗談だったら、じゃなくて? 冗談でそんなこと言うなって。本当にその境遇にある人の気持ちを考えろって」
「いや。冗談じゃなかったら怒りたい。えっと、社会とかを」
「片品さん、良い人なんですね」
「そうだよ。だから、頼りたまえ」
「遠慮します」
「なんでだ」
「だって、片品さん、結婚するじゃないですか」
「まあね。幸せな気分ではあるよね。でもね、だからなんだよ」
「不幸そうな人を見ているのは気分が良くないですか?」
「そうじゃないけど」
飯田亮太は曖昧に笑う。彼はいつもそうやって笑う。
「僕は大丈夫ですよ。割と幸せです。現実、幸せな人がいれば不幸な人もいる。幸せな人から見たら、不幸な人は不幸にしか見えないでしょうけど、その不幸に見える人もそれなりに幸せだと思えるものを持ってます。だから、どうぞ幸せになってください」
「大人だねえ」
「そんなことはないです」
飯田亮太は半年が経っても、一年が経ってもここで働いていた。真面目でよく働く。ただ、職場に馴染もうとはしなかった。こちらから誘っても、曖昧に笑ってやんわりと断る。馴染めないのではない。馴染もうとしない。愛想が悪いわけでも、コミュニケーション能力が低いわけでもなく、けれど一人でいることを好んでいた。人と関わるのを避けているかのようだった。こういう職場だからだろうか。この職場ではなれ合いは必要ない、みたいな。
けれど、彼を心配するよりも、他に気にかけるべきことがある。飯田亮太を気にかけはじめた一年半前とは自分の立場も違う。いまや娘もいる。ここで働き続けるべきかと少し悩んでいた。
休憩に彼を誘って、外階段で煙草をふかした。
「娘がさ、大きくなったとき、お父さんの仕事は、ラブホテルの清掃員ですって、言えるのかなあって」
「ホテルの清掃でいいんじゃないですか」
「嘘は良くない」
「でも、本当のことをすべて包み隠さずいるのが良いとは限りませんよ。少し濁らせていた方が世の中上手く回ります」
「けど、会社員だとか、工場で働いてるとか、そういう普通の仕事なら、自分も胸を張っていられるのかなって。飯田くんも、彼女にバイト先教えたくないでしょ」
「まあ、でも、今はここしかないんで。聞かれたら言うかも」
「言えるの?」
「はい。なんて言うか、変わった子なんで。でも別に聞かれたこともないですけど」
飯田亮太は、曖昧に笑った。またあの笑みだ。煙草をすすめる。彼はそれを手にしない。それが、余計に彼を大人に感じさせる。
「あーあ。ぼくは子供だなあ」
「大人でしょう。娘さんもいるんだし。煙草も吸ってるし」
「煙草は関係ないよ。十七からだし。それに、子供がいれば大人ってわけじゃないんだよ」
「大人になってもらわなきゃ困ります」
「冷たいなあ」
「僕、就活中なんです。胸が張れないなら、片品さんも、片品さんが胸を張れると思う仕事に転職したらどうですか?」
「たとえば?」
「それは知りませんよ。自分で考えてください」
「飯田くんはなんになるの?」
「普通に会社員になろうと思ってます」
「なれそう?」
「なります」
「強いね」
「そうありたいので」
飯田亮太は、この一年半ですっかり大人の顔になった。それは一年と半年分の年月以上に。今なら十九歳に見えなくもない。いや、一応、いまは二十歳そこそこという設定のはず。
けれど、未だにこの青年のことがよく分からない。どうして、バイト先をここにしたのかもだし、まず彼の私生活がまったく見えてこなかった。ここにいる、テキパキとよく働くラブホテルの清掃員、飯田亮太しか知らない。彼にとって、ここは単なるバイト先で、つながりを求める場所ではないのかもしれない。
作品名:やさしいあめ8 作家名: