Biting cold
前にもこんな会話をした気がするが、おれは念押しした。お冷がおれに『助けてください』と言ったのが、数か月前の話。そしてわざわざ家までやってきて、委員会にも言いたくないとゴネた。おれに直談判した理由はすぐに分かった。社内のIT事情についておれがよく知っているからだ。例えば、機密情報とされるファイルが送られるタイミングがいつで、それがどんなファイルだとか。ログサーバーにどういう情報が残っていて、担当の人間がどのタイミングで上書きしているかも。専門の部署じゃないというのは、余計に都合がいい。お冷はその辺をよく分かっていた。
情報工学をかじった学生でも思いつくような手口だが、セキュリティ部門が横着していることを同期から聞いているおれには、自信があった。おれがヘッダ情報を作り変えたメールは、今でも部長が送ったことになっている。
部長の肩書には早々に『元』がつき、今は顔を合わせたコミュニケーションを重視する課長として、おれが所属する課に浅く腰かけている。あと五年でやってくる定年退職までは、ひたすら息を潜めて過ごすのだろう。
それより、自分の心配をした方がいいぞ。
頭の上からそう言われた気がして、おれは部屋の中を見回した。お冷に指摘された通り、無駄な物は置いていない。
『自炊しないんすね。冷蔵庫が空っぽじゃないすか』
お冷の言葉。風呂に入り、眠るときまでそのちょっと宙に浮いたような高い声は頭に残っていた。
金曜日だというのにこの忙しさは、何なんだろう。次から次から休む間がないし、係長は踏ん張り時だと言うが、課長は定時で帰れと言う。アクセルとブレーキを同時に踏まれている感覚だ。向かいの東山も忙しそうにしている。他の社員との雑談がふと耳に入った。
『今日で一週間』
何が? 聞き流すが、言葉の方が流れて行かない。部長が降格になったのは一か月前の話。お冷が『もうひとりいる』と言ったのが、先週。記憶がどうにもはっきりしない。
昼休みのチャイムが鳴り、容赦なく電話が鳴る。それを取ったおれが歯を食いしばって電話を切り、いつものやり取り。
「昼からでいい。マジで」
「はい。今から食べに行くんすか?」
「意地でも食べる」
お冷との短いやり取り。おれは満員のエレベーターに詰め込まれて『松戸』か『カムデン』のどちらかに並ぶ。お冷が運ばれてきて『相席よろしいですかー』の声に向かい合わせに腰を下ろした生気のないサラリーマン。右頬にほくろ。何かがおかしい。おれは食べ終わった後、いつも通り伝票を掴んで席を立つのを思い直して、前を見つめた。やはり、注文すら取りに来ない。おれは店員を呼び止めた。
「あの、向かいにせめてお冷を」
「待ち合わせですか?」
店員の、咄嗟に浮かんだらしいひと言。おれは顔を戻した。相席よろしいですかと言われて、おれは『はい』と答えたはずだ。なのに、向かいには誰も座っていない。苦笑いのまま店員がいなくなり、おれは会計を済ませて店の外に出た。うどん待ちの列は少しずつ進んでいる。昼が終わったら、また仕事の山。忙しすぎるのは、単にそう感じるからなのか。例えば、頭の中の大半が他のことに使われているとか。結論が出ないまま戻り、お冷がいつの間にか帰ってしまったことに気づいて、おれは言った。
「東山。お冷は?」
「あの、誰と話してるんですか?」
東山が言い、おれは答えずに給湯室の方へ言った。あまり人と共有したくない話題を事務員たちが話しているのが、声の調子で分かった。
『あの二人は、仲良かったもんね。もう一週間か』
『しっかりした子だったし、辞めるにしても、ひと言あるでしょうから』
はっきり聞き取れた。こいつらは、何を言ってるんだ? おれが給湯室へ入ると、事務員二人が目を丸くしておれの方を向いた。茶髪の明るい方が言った。
「あの、早く帰ってくるといいですね」
茶髪の暗い方が付け加えた。
「ちょっとストレスが溜まっちゃったんですよ」
おれは答えることなく、熱いお茶を淹れた。こいつらは、何を言ってるんだ?
「何の話だよ」
そう言うと、明茶髪がぎょっとしたように身を引いて、暗茶髪が口を開いた。
「いや、冷水さんですけど。欠勤して今日で一週間じゃないですか。捜索願が出たから、会社のことだけじゃないのかも」
暗茶髪が長々とぺらぺら喋るのに耐えられなくなって、おれは自席に戻った。
定時になり、会社から出て駅まで歩いている最中に、お冷の言葉を思い出す。
『もうひとりいる』
『もうひとりいるんすよ』
『もうひとりいるんすよ、その人もわたしにちょっかいをかけてきて』
どんどん記憶が鮮明になっていく。おれは電車の広告をじっと見つめながら、最寄り駅まで耐えた。お冷は、部長と補佐役の二人に怒っていた。東山の言っていたことも、明暗茶髪の言葉も気にかかる。あの『カムデン』の店員の言葉ですら。
おれは、頭がおかしいのか?
窓の外は真っ暗なはずだが、そこにおれが映りこんでいる。
鏡像だから左にあるように見えるが、そのほくろが実際にあるのは右側だ。顔に触れると、確かにその感触はあった。いびつな眉間のしわ。疲れ切った顔。おれが悪いんじゃない。仕事が忙しすぎるのだ。
それにここ一週間は、色々とありすぎた。
コンビニで食材を買い、玄関のドアを開けた。おれは習慣に囚われている。会社の人間の言葉を聞いている内にヒビが入ってきて、もう手が入るぐらいの大きさになっている気がする。いつもならテレビはつけない。しかしお冷は、おれの家にやってきたとき『わたしは真っ先にテレビつけちゃいますね』と言った。
だからおれもテレビをつけた。ニュースが次々と流れていく中、お冷の顔が大写しになった。
『行方不明。足取り掴めず』
もうこんな助け方はしないからな。おれは確かに、そう言ったのだ。ゲームじゃあるまいし、同じような手口で二人を別々に追い詰めることはできない。
『どんな風にやったか、わたしは知ってるんすよ』
これだけ会社に尽くしてきた人間に、その言葉はない。他に何も残らないぐらいに仕事を優先して生きてきたということぐらい、知っているはずだ。それは、おれが道連れになっても構わないという死刑宣告だった。否定しても、堂々巡りの理屈。
『でも、もうひとりいるんすよ』
そうだな。おれはお冷に問いかけた。冷水響子。その特技は、社会人三年目とは思えない手の速さ。
「お前は、容赦がなさすぎるんだよ。グレーゾーンがない」
「そうなんすかね」
きっと、お冷ならこう答えただろう。記憶の中だけで生き続ける、宙に浮いたような甲高い声。実際、こんな声だったか? 自分の声を通して再現するのは、変な感じだ。
おれは冷蔵庫を開けて、缶ビールを一本掴み上げると、腰を下ろした。お冷ってのは、いいあだ名だ。でももしかしたら、頭のおかしいおれがその顔を見られるのは、時間の問題なのかもしれない。お前はどう思う?
おれが聞いても、お冷は答えない。
ただ、折り曲げられてほとんど前髪で隠れた中から覗く真っ赤な目で、おれを睨み返している。
作品名:Biting cold 作家名:オオサカタロウ