Biting cold
「承知しました」
怒りは食いしばった歯に逃がして、とりあえず言った。そのトーンは若干せっかちで、うんざりしているように聞こえたかもしれない。一本の電話で、何回同じことを言えばいいのか。昼休み中の電話自体ご時世的にどうなのかと思うが、ペンと紙を武器に二十四時間働いていた世代はまだまだ老後を楽しんでいる。結果的に、部下が昼寝から起こされ、おれは足止めを食らい、今から出たところで、定食屋にはおれをコピーしたようなサラリーマンの行列ができているはずだ。おれが電話を置くのと同時に、会話の内容を聞いていた部下の手が動いて、おおよそタッチタイピングのホームポジションに辿り着こうとしている。冷水響子、二十六歳。苗字はしみずと読む。冷徹な性格で裏では『お冷』とあだ名をつけられているが、その特技は、社会人三年目とは思えない手の速さ。しかし、隣に座るおれが歯をいくら食いしばっているからといって、昼休みを犠牲にしてはいけない。
「昼からでいい。マジで」
「はい。今から食べに行くんすか?」
「意地でも食べる」
小声でのやり取りが終わり、おれは席を立った。早足でエレベータに乗り、十階から一階まで降りようとするが、会社が入るビルは二十階まであるから、乗り込むのをちょうど遠慮したくなるぐらいのすし詰め感で、腹をすかせたサラリーマンが上のフロアから運ばれて来る。目の前でドアが開き、中身は想像通りだったが遠慮の余地はない。少しだけ体を捻りながら押し込み、閉まるボタンが連打されるよりも先に顔を引っ込めて、ドアによる顔のサンドイッチだけは免れた。
オフィス街に解き放たれて思うのは、仕事中に自分の頭へかかっている負担の大きさ。物理的な重さに変換すれば、おおよそ十キロのヘルメット。三十歳という年齢によるものと、主査という立場によるものと、五キロずつ。それでも、テンションだけは維持しなければならない。いきつけのうどん屋『松戸』は、サラリーマンひとりひとりに上を向かせて、うどんを流し込んでいった方がいいと思えるぐらいの行列。向かいの洋食屋『カムデン』もいい勝負だが、まだ列は控えめ。そっちの最後尾について前へ習えをしながらちびちび歩みを進めていると、ほどなくして店内へ案内された。湿っぽいが落ち着く、薄暗い空間。日替わりは洋食定番盛り合わせ。
「相席よろしいですかー」
店員がお冷を運ぶついでに、おれの方を向いて言った。おれがうなずくと、向かい合わせに疲れた顔のサラリーマンが座り、尻を椅子に置いたときの小さなうめき声とほぼ同時に『日替わり』と呟いた。
『あんた生きてるか? 多分、注文通ってねーぞ』
おれは頭の中で呟いた。透明人間のように、店員はお冷すら置きに来ない。いつの間にか隣も相席になっていた上に、そっちには先にお冷が運ばれてきている。おれは向かいのサラリーマンを観察した。右頬のほくろ、いびつな眉間のしわ。存在を悟られることを拒否するようだ。そんなことを考えていると、控えめなサイズに色々と盛りつけられた定食が運ばれてきて、おれはそっちに取り掛かった。食べ終わって会計を済ませるときにさっきのサラリーマンを振り返ったが、諦めたのかいなくなっていた。夕方には骨と皮になっているかもしれない。
昼からの予定は、会議の無駄を省くための会議。オンライン環境に馴染めない課長からDX時代へ向けて、ささやかに立てられた中指。『顔を合わせてやらないと伝わらない』というのが口癖だが、今のところメリットを感じたことはない。議題はもうひとつあって、それは『信頼回復』。数か月前に、機密情報がうっかり客先のひとりに漏れてうちの取り分が丸裸になってしまうという、忌まわしい事件があったばかり。
一時間ほど色々詰め込まれて自席に戻ると、冷水の席は空いたままになっていた。向かいに座る三年目の東山と目が合い、おれは言った。
「お冷は?」
東山は眼鏡をひょいと上げると、目を丸くした。
「えっ?」
会話は続かない。どんな柔らかいラリーも全力のスマッシュで返ってくる。最近入ってきた中途採用の二人は特に、その傾向がある。おれは、いわゆる社畜だ。働き方は体育会系と効率化のハイブリッドで、どっちも真っ先に手を挙げるから手元の仕事は減らない。おれは自席に座ると、定時まで会議の無駄を省くための資料を作り続けた。このまま終わるかと思いきや、十六時から支店の打ち合わせに急に呼ばれて、十九時に相手の時間切れで終わった。
『終わった。帰りますわ』
お冷にメールを送ると、家に帰った。単身のサラリーマンが住むべくして住む、普通のマンション。周囲がうるさいのは耐えられないから、戸数が少なくて少し人混みから離れた場所に建っている物件を選んだ。玄関で革靴を飛ばし、ネクタイを半分抜いてから上着を脱いでハンガーにかけ、あとはなし崩し的に部屋着へ着替えると、テーブルの上に途中コンビニで買った食材を並べた。
お冷がこの殺風景な部屋を訪れることになったきっかけは、部長から受けているらしいパワハラの相談だった。社内のコンプライアンス委員会に相談しろとアドバイスしたが、委員の中に部長の同期がいるからと言って、嫌がった。
『なんで、だめなんすか』
おれが返事するより前に、そう言いながらお冷は家まで着いてきた。そして、そっけない部屋の構成に呆れていた。
『どっかから逃げてきたみたいな部屋すね』
お冷の言葉は、ひとつひとつが面白い。だからよく頭に残っている。冷凍庫を開けてビールを二本掴むと、おれは言った。
「ようやく、ほとぼりが冷めてきた感じだな」
「長かったすね」
「会社の空気が重いのは、もう勘弁だよ」
そう言って腰を下ろしながら、表情は無意識に苦笑いに変わった。コンプライアンス委員会も独立した団体じゃないから、まずは身内での探り合いになる。その辺の力学は、息継ぎなしに言えないような横文字を並べても同じだ。今回、情報セキュリティ委員会も色々と専門知識を駆使して頑張ったようだが、取り返しはつかなかった。
「丸一日復帰できる日は、来るかな?」
おれがそう言っても、お冷は答えなかった。
「まあ、出社できるだけでも前進だよ」
冷水のあだ名が『お冷』になったのは、部長の秘書のような扱いを受けていたから。その見た目や身のこなしからもあまり温度が感じられず、飄々とこなしているのだと皆思っていた。もちろん、失敗がゼロだったわけではない。お冷がゴミをまとめて紐でくくっているときに、怒った部長が声を掛けるのを、おれは偶然聞いた。
『お前もだろ』
お前もゴミなのだから、ゴミ箱にいろと、そういう意味のことだ。それは部長の定番の怒り方でおれはもう慣れていたが、お冷には随分応えていたらしい。
「とりあえず、おれはもうこんな助け方はしないからな」
怒りは食いしばった歯に逃がして、とりあえず言った。そのトーンは若干せっかちで、うんざりしているように聞こえたかもしれない。一本の電話で、何回同じことを言えばいいのか。昼休み中の電話自体ご時世的にどうなのかと思うが、ペンと紙を武器に二十四時間働いていた世代はまだまだ老後を楽しんでいる。結果的に、部下が昼寝から起こされ、おれは足止めを食らい、今から出たところで、定食屋にはおれをコピーしたようなサラリーマンの行列ができているはずだ。おれが電話を置くのと同時に、会話の内容を聞いていた部下の手が動いて、おおよそタッチタイピングのホームポジションに辿り着こうとしている。冷水響子、二十六歳。苗字はしみずと読む。冷徹な性格で裏では『お冷』とあだ名をつけられているが、その特技は、社会人三年目とは思えない手の速さ。しかし、隣に座るおれが歯をいくら食いしばっているからといって、昼休みを犠牲にしてはいけない。
「昼からでいい。マジで」
「はい。今から食べに行くんすか?」
「意地でも食べる」
小声でのやり取りが終わり、おれは席を立った。早足でエレベータに乗り、十階から一階まで降りようとするが、会社が入るビルは二十階まであるから、乗り込むのをちょうど遠慮したくなるぐらいのすし詰め感で、腹をすかせたサラリーマンが上のフロアから運ばれて来る。目の前でドアが開き、中身は想像通りだったが遠慮の余地はない。少しだけ体を捻りながら押し込み、閉まるボタンが連打されるよりも先に顔を引っ込めて、ドアによる顔のサンドイッチだけは免れた。
オフィス街に解き放たれて思うのは、仕事中に自分の頭へかかっている負担の大きさ。物理的な重さに変換すれば、おおよそ十キロのヘルメット。三十歳という年齢によるものと、主査という立場によるものと、五キロずつ。それでも、テンションだけは維持しなければならない。いきつけのうどん屋『松戸』は、サラリーマンひとりひとりに上を向かせて、うどんを流し込んでいった方がいいと思えるぐらいの行列。向かいの洋食屋『カムデン』もいい勝負だが、まだ列は控えめ。そっちの最後尾について前へ習えをしながらちびちび歩みを進めていると、ほどなくして店内へ案内された。湿っぽいが落ち着く、薄暗い空間。日替わりは洋食定番盛り合わせ。
「相席よろしいですかー」
店員がお冷を運ぶついでに、おれの方を向いて言った。おれがうなずくと、向かい合わせに疲れた顔のサラリーマンが座り、尻を椅子に置いたときの小さなうめき声とほぼ同時に『日替わり』と呟いた。
『あんた生きてるか? 多分、注文通ってねーぞ』
おれは頭の中で呟いた。透明人間のように、店員はお冷すら置きに来ない。いつの間にか隣も相席になっていた上に、そっちには先にお冷が運ばれてきている。おれは向かいのサラリーマンを観察した。右頬のほくろ、いびつな眉間のしわ。存在を悟られることを拒否するようだ。そんなことを考えていると、控えめなサイズに色々と盛りつけられた定食が運ばれてきて、おれはそっちに取り掛かった。食べ終わって会計を済ませるときにさっきのサラリーマンを振り返ったが、諦めたのかいなくなっていた。夕方には骨と皮になっているかもしれない。
昼からの予定は、会議の無駄を省くための会議。オンライン環境に馴染めない課長からDX時代へ向けて、ささやかに立てられた中指。『顔を合わせてやらないと伝わらない』というのが口癖だが、今のところメリットを感じたことはない。議題はもうひとつあって、それは『信頼回復』。数か月前に、機密情報がうっかり客先のひとりに漏れてうちの取り分が丸裸になってしまうという、忌まわしい事件があったばかり。
一時間ほど色々詰め込まれて自席に戻ると、冷水の席は空いたままになっていた。向かいに座る三年目の東山と目が合い、おれは言った。
「お冷は?」
東山は眼鏡をひょいと上げると、目を丸くした。
「えっ?」
会話は続かない。どんな柔らかいラリーも全力のスマッシュで返ってくる。最近入ってきた中途採用の二人は特に、その傾向がある。おれは、いわゆる社畜だ。働き方は体育会系と効率化のハイブリッドで、どっちも真っ先に手を挙げるから手元の仕事は減らない。おれは自席に座ると、定時まで会議の無駄を省くための資料を作り続けた。このまま終わるかと思いきや、十六時から支店の打ち合わせに急に呼ばれて、十九時に相手の時間切れで終わった。
『終わった。帰りますわ』
お冷にメールを送ると、家に帰った。単身のサラリーマンが住むべくして住む、普通のマンション。周囲がうるさいのは耐えられないから、戸数が少なくて少し人混みから離れた場所に建っている物件を選んだ。玄関で革靴を飛ばし、ネクタイを半分抜いてから上着を脱いでハンガーにかけ、あとはなし崩し的に部屋着へ着替えると、テーブルの上に途中コンビニで買った食材を並べた。
お冷がこの殺風景な部屋を訪れることになったきっかけは、部長から受けているらしいパワハラの相談だった。社内のコンプライアンス委員会に相談しろとアドバイスしたが、委員の中に部長の同期がいるからと言って、嫌がった。
『なんで、だめなんすか』
おれが返事するより前に、そう言いながらお冷は家まで着いてきた。そして、そっけない部屋の構成に呆れていた。
『どっかから逃げてきたみたいな部屋すね』
お冷の言葉は、ひとつひとつが面白い。だからよく頭に残っている。冷凍庫を開けてビールを二本掴むと、おれは言った。
「ようやく、ほとぼりが冷めてきた感じだな」
「長かったすね」
「会社の空気が重いのは、もう勘弁だよ」
そう言って腰を下ろしながら、表情は無意識に苦笑いに変わった。コンプライアンス委員会も独立した団体じゃないから、まずは身内での探り合いになる。その辺の力学は、息継ぎなしに言えないような横文字を並べても同じだ。今回、情報セキュリティ委員会も色々と専門知識を駆使して頑張ったようだが、取り返しはつかなかった。
「丸一日復帰できる日は、来るかな?」
おれがそう言っても、お冷は答えなかった。
「まあ、出社できるだけでも前進だよ」
冷水のあだ名が『お冷』になったのは、部長の秘書のような扱いを受けていたから。その見た目や身のこなしからもあまり温度が感じられず、飄々とこなしているのだと皆思っていた。もちろん、失敗がゼロだったわけではない。お冷がゴミをまとめて紐でくくっているときに、怒った部長が声を掛けるのを、おれは偶然聞いた。
『お前もだろ』
お前もゴミなのだから、ゴミ箱にいろと、そういう意味のことだ。それは部長の定番の怒り方でおれはもう慣れていたが、お冷には随分応えていたらしい。
「とりあえず、おれはもうこんな助け方はしないからな」
作品名:Biting cold 作家名:オオサカタロウ