美しき闇
夜中、携帯が光った。女のものだ、たまたま枕元にあった。軽い気持ちで覗き込む、
「嫁にばれた」
と。
これはなんなのか、女の秘密に触れてしまった、頭が動きだして眠れない。画像の
ネガポジが反転するような衝撃だった。一緒に暮らしているのに女のことはほとんど何もわかっていない。聞き出すタイミングもなかった。夕方には必ず帰ってきて晩ごはんは一緒に食べる。夫婦のくらしが始まっていたのに、女が結婚していたのか離婚したのか、子供がいるのかいないのか、何も知らない。
別れの予感がした。しかしそれはあまりに寂しい。女は突然いなくなるかもしれない。
それなら、この同棲はフィクションなのだ。体は一度もつながったことがないが、ことばでは交わってると、きっぱりと断言できる。しかし愛しあっていたと言えるだろうか、女のなかにある闇はあまりに深い。言葉を通さないバリケードだ。男はバリケードの前で立ちすくんでいる。
男は女の中にある闇に気が付いた。その闇は深そうだ。考えてみれば女のことはほとんど何も知らない。あえて聞かずに過ごしてきたともいえる。娘みたいな女との同棲は性欲解消には都合がよい。娯楽ともいえよう。
女との同棲は映画館に似ていると男は考えた。闇を必要と知っている。映像は二人がともにしている時間と空間だと言えよう。女の過去と女の昼間が闇になる。
その出来事の後、女の手料理を味わいながら、
「昼間のしごと、何してんのや」
男の質問に女は
「ルームエステ」
と瞬時に答えた。男にはその仕事がわからなかったようだ。
「エステ、か、どんなお客さん」
「訪問してね、化粧品も売れるし」
ごまかした。
女は自分の正体がばれないうちに別れを切りだそうと考え始めた。
ホモ・サピエンスがネアンデルタール人に勝利したのは、社会をつくることができたから、それはフィクションによる、ないことを考える力、テレビの教養番組で脳科学者が話しかけてくる。
えたいの知れない不安が女を襲い、テレビの教養番組に切り替えたのだった。
個体差を超えた何かを共有して、赤の他人と連携できる、のだと。脳科学者は雄弁だった。共同幻想、唯幻論など目新しい言葉が躍っている。彼は言う、法律、貨幣、宗教、幻想だと。
なるほどと、女は納得した。そうなら女の生き方はフィクションであり虚構だということができる。しかもフィクションは重層化されていて、現実のくらしなのに虚構と言い切ってよい。虚構が二つ、並行、併存しているのだ。これは矛盾ではない、女は自立の根拠を得たと思った。性欲をコントロールできた自信は女を自立に導いた。
しかし、男は女の幻想論にはくみしないだろう。この男は幻想がなくてもリアルだけで生きていける。女のフィクションもファンタジーも闇もいっさい理解できないに違いない。
考えるに挿入行為は加虐性を伴うが男性たちの思い違いの原因である。挿入行為がなければ性交渉の場面は一変する。女性が子供を欲しないなら挿入行為は不要だ。女は現に不思議な体験をしている。メンエスの客たちは総じてⅯタイプである。セラピストの施術に身をゆだねて快感を得ている。女には新地平だ。新地平に立つ女には男たちの発想は耐えがたい。
男との同棲は自ら仕掛けたことであって後悔はない。同棲に多少のストレスがあるとしても精神には適度な運動である。メンズエステの客たちとのストレスはもっと深いはずと思われたが、テクニックを駆使して精神への影響を軽減できた。
しかし、男が女のことを知れば知るほど、事態の複雑化は必至だ。それは精神にダメージをもたらすストレスになる。ストレスの2正面作戦はさけたい。
いきなり去ることにした。