Jolt
刈田は、鴨山から聞いた通りにタイヤの痕を辿り、大きな道を目指した。こっちから過去を訪れることで、何かが起きると期待していたのは確かだ。例えば家の本来の持ち主やその子孫がいたり、新たな『現象』が起きて襲ってきたり。頭のどこかでそんな虫のいい考えを持っていた。しかし、鴨山の言う通りテープと空っぽの容器は不思議な感じがしたが、それ以外は至って普通の家具ばかりだった。そもそも、鴨山がリフォームして材木加工のワークショップにしている時点で、呪いも何もあったものではない。もしそんなものが残っていれば、鴨山が出荷した木で作られたものは漏れなく災いをもたらすに違いない。
刈田はふと足を止めた。探し物をしている間から、スマートフォンがずっと鳴っている。いよいよ諦めたようにポケットからスマートフォンを取り出し、表示されている名前を見た刈田は顔をしかめた。派遣会社の営業、沢木。一応、出ておいたほうがいい。
「はい」
通話ボタンを押すなり刈田が言うと、沢木は長々と会社名を読み上げて『担当営業の』と前置きをしたうえで名乗った。
「お休みのところすみません、刈田さん。今入ってもらってるプロジェクトの話なんですが。先ほど、垣内さんから聞き取りしまして」
刈田は再び歩き始めた。垣内というのは、あの汗臭い関取の名前だ。関取の担当でもある沢木が次に何を言うか、予測がついた。
「繁忙期に差し掛かっているということで、最近は残業も増えていると思うんですが。垣内さんが言うには、止めようとしたけどレビュー後のミーティングを待たずに帰ってしまったと。何かご事情があってのことでしょうか」
つまり、関取はビビってあの後戻ったのだ。刈田は大きな道路に出ると、大きな陸橋を渡り始めた。川は流れは穏やかで、太陽はほぼ頭上にいる。事情は確かにあるが、言うほどのことじゃない。
「定時までに指示がなかったので」
刈田が言うと、沢木は次に言うべきことを仕切り直しているように黙り込んだが、ようやく余計な敬語を削ぎ落とせたように、口を開いた。
「あのですね、垣内さんが刈田さんの分まで修正作業をすることになったんです。夜通しかかったと言ってました。チームとして協力していただけないなら、刈田さんだけ交代の話が出るかもしれないと認識しておいてください」
「そうですか。それで結構です」
刈田はそう言うと、返事を待つことなくスマートフォンを川に投げ捨てた。このまま歩いていれば、いつか歩けなくなり、座り込んでいれば、いつか座っていられなくなり、横になって空を見上げていれば、いつか目も開かなくなる。こんな簡単な方法があったのに、今までずっと回り道をしてきた。何もしなければ、この人生は勝手に終わってくれるのだ。どこかで聞いた気がするフレーズが、ふと頭に蘇った。
『ざんねんオチ』
いい言葉だ。あの赤い屋根の家での探し物の結果も含めて、今の自分を完全に言い表している。期待に比例して驚くような事実が見つかったり、そう都合良くはいかないものだ。鴨山はよくしゃべる男だったし、何でも教えてくれた。そこに希望の光が見えた気がしたのは、鴨山が前の持ち主の情報を持って来てくれたときだった。しかし、売り渡し時の署名欄に書かれた名前は記憶のどこにも存在せず、その時点で刈田は全てを諦めた。『赤い屋根の家』の、当時の持ち主。
その欄には、梶山時雄と書かれていた。
「ママは、幽霊を信じる?」
麻衣はそう言うと、江美子の顔を見上げた。
「私は、やっぱりこの世に理解できないものっていうのが、あると思う。こういうの集めてたってこと自体、ずっと忘れてた」
江美子は、少女だった麻衣が毛布を引き寄せながら、それでもその原因となっているはずの怖い動画に魅入られている姿を、今の麻衣に重ねて微笑んだ。子供というのはいつだって、幼いときの面影をオーラのように纏っている。時折今の姿が綻んで、昔の表情が覗く瞬間が好きだった。それはお爺ちゃんも同じだ。麻衣が喜ぶことなら、何だってしてくれた。
『呪いなんてものは、ないぞ』
家族が全員寝静まった深夜、江美子は自分の父である『お爺ちゃん』とこたつを囲み、そんな話をした。
『そもそも、麻衣ちゃんは怖がってなかったんじゃないか』
せっかく楽しみにして買った本なのに、残念オチだと思ってしまうのは可哀想だ。少なくとも江美子はそう思った。本当に怖いのは、知らない内に人生を左右されるような『呪い』をかけられるということ。
『お爺ちゃん、現実目線で考えてくれていいのよ。麻衣が喜べばいいの』
江美子が念押ししたことで、お爺ちゃんは何かを思いついたように口角を上げて笑った。あの笑顔は今思い出せば、幽霊より恐ろしい。血を継ぐ娘である自分も、同じ顔をしていただろう。
お爺ちゃんは赤い屋根の家に行くと、まず扉を立て直した。窓を応急処置してテープで隙間に目張りをし、大きな容器を軽トラから降ろしたとき、何が起こるか分からないでいる江美子は、子供時代のようにはしゃいだ。
『何をするの』
『その高校生が来たらドライアイスを焚く。酸欠になったら、すぐに気を失うよ』
確か、そんなやり取りをしたと思う。お爺ちゃんがそれとは別に、茶色の小瓶に入った中身を振っていたのも、よく覚えている。江美子は、大人になった麻衣が昔のように心霊本に猫背で食いつく様子を見ながら、微笑んだ。本当にお爺ちゃんは、可愛い孫のためなら何だってしてくれた。
お爺ちゃんが、気を失った三人に飲ませた茶色の小瓶の中身は、農薬とヒ素のカクテル。身体能力が衰えて平衡感覚は狂い、自律神経にも取り返しのつかない障害が残る。あのときは、現実に身近な人間が『呪われる』姿を見れば、麻衣が喜ぶと思っていたのだけど。
「私も、すっかり忘れてたな」
江美子が言ったとき、麻衣は宝物を探し当てたように、昔の本を手元に置いたまま段ボールの残りを覗き込んだ。
「こんなにハマってたんだな、私。ママは、幽霊が怖い?」
江美子はうなずいたが、条件を付け足すように答えた。
「私は、人間が一番怖いと思うわ。幽霊も、元は人間だったんだから」
麻衣は納得したように、大人の顔のまま泣き笑いのような表情になった。子供だったとき、怖い話を読みすぎて眠れなくなると、よくこんな顔をしていた。江美子が当時の幼かった姿を重ねたとき、麻衣は言った。
「赤い屋根の家だけど。あの三人は呪われたのかな? でも、どうして?」
江美子は首を傾げた。バイクの音がうるさいから、いつも二階の窓を閉めていたのは覚えている。まあ迷惑だったけど、そんなのは些細な事だ。理由にもならない。お爺ちゃんもあの家は使っていなかったから、落書きは特に気にしていなかった。ただ、麻衣が怖がりたいなら、最大限怖がらせようと全力を尽くすのが親の役目だというのは、今でも確信している。そして、呪いの正体が答えの出ない『どうして?』だということも。中身を知れば、その火は消えてしまうだろう。それでは、勿体なさすぎる。江美子は麻衣の横顔を見ながら、微笑んだ。
だから、あなたは知らなくていい。
ただ、世の中のありとあらゆることは、あなたを悲しませるにしろ喜ばせるにしろ、全てがあなたのためにある。