Jolt
― 現在 ―
エンジニアという肩書は、正直なところ響きがいいだけで、実際には手先しか動かさない工員に近い。刈田祐は二浪して滑り込んだ大学をどうにか四年で脱出し、派遣ITエンジニアの仕事に就いた。担当の営業は空気と言ってもふさわしいぐらいに役に立たず、テンポよく仕事を繋ぐためには、常にアンテナを張っておかなければならない。大学の同期達は、刈田の『就職先』を知ったとき、業界を自分の腕一本で渡り歩いていくイメージを楽観的に語っていたが、今思い返せばその表情の中には『こいつ、大丈夫なのか』という心配も含まれていたと思う。今は、心配してくれる人間が周りにいない。刈田は給湯室で粉っぽいインスタントコーヒーを飲みながら、大学を出たばかりの自分の姿を思い出していた。振り返ればスタート地点というのはあちこちにあったが、ことごとく手遅れになってから気づいた。どこでどう追い越されたのかも分からない。ただ、企業の採用面接を避けていたのは事実だ。面と向かって話している内に、どこかで二浪という部分を問われるという恐怖心があった。そんなことどうでもいいと思えるぐらいの厚かましさを得てからは逆に、企業に面接を受けに行く機会がなくなった。
今年で三十二歳になるが、今のプロジェクトリーダーは二歳年下で、別室でコードレビューの最中。レビュー前のレビューで指摘された修正点は、四か所あった。時間がなかったから、何も修正していない。刈田はコーヒーの残りをシンクに捨てると、カップをゴミ箱に投げ捨てた。壁越しに聞こえた感じだと、リーダーは相当絞られている。リーダーの上司はパワハラ気質で、派遣のことは人として見ていないから怒ることもしないが、社員に対してはありとあらゆる罵詈雑言を飛ばす。拾えたフレーズは、『チンパンジーに製造させてんのか』。そのチンパンジーが自分ということになるが、そんなことをいちいち気にして、金曜日の定時直前にコードレビューをするような会社に取り込まれたくはない。
レビューが終わって出てきた年下のリーダーは、妙に年功序列を気にしている。青白い顔でこちらを見ると、文句を言うこともなく先に自席へ戻っていった。刈田がその後ろ姿を追っていると、後から出てきた上司は何も言わずにコーヒーのスティックを棚から抜き、外に出し忘れたゴミ袋を避けるように刈田の周りを迂回して、ポットの取っ手に手を掛けた。刈田は自席に戻り、まだ青い顔をしているリーダーの丸い背中を見つめた。気が早い上司のお陰でスケジュールはまだまだ余裕があるはずだが、その青臭い頭の中にあるのは、つい今上司から聞いた言葉だけだろう。指示通りに修正しなかったのはこっちの責任だが、リーダーには思い悩む必要なんかないと言ってやりたい。どれだけ罵詈雑言が思いつく人間でも、頭を灰皿で殴ったら死ぬのだ。上司も給料をもらうためにここにいるだけで、死ぬまでの時間潰しをしているだけに過ぎない。
はるか昔のスタート地点を今更振り返っても仕方がないが、高校時代はもっと熱意を持っていた。田舎だったが、遊びも勉強もバランスよくやり、公民館の一角にある塾に通っていた。よく遊ぶ仲間すらいた。ひとりは朝川快斗。水泳部でスポーツ特化型。もうひとりは照内実で、遊び特化型。不良とも言う。排気音のうるさいバイクによく乗せてもらった。
画面が消えないようマウスを動かしたとき、終業のチャイムが鳴った。事務員が帰るのに合わせるようにドアを開けてもらって外に出ると、隣席の汗臭い関取のような派遣もゴキブリのように息を潜めながらついてきた。罵詈雑言を頭の隅に追いやったリーダーが振り返っても、開発メンバーの派遣二人はいない。残業しろとも言われていないから、当たり前の話だ。刈田が駅までの道を早足で歩き始めると、関取が息を切らせながら横に並んで言った。
「あの、今日は用事あるんでしたよね?」
「はい」
刈田が短く答えると、関取は膝を庇うように歩きながら言った。
「来週に持ち越したらヤバいかと思ったんですが、怒られませんかね」
「ヤバかったら、先に言うんじゃないですか。何か言われましたか?」
刈田はそう言うと、返事を待たずにコンビニの前で足を止めた。一礼して関取を自分の空間から切り離すと、視線を遮るように店内に入った。何にもやる気が出ないし、頭に入らない。そしてそれは、自分だけではない。
朝川は、推薦で大学に入ってあっさり水泳をやめてしまった。そこからは実家の手伝いで、世間的には無職だ。照川は大学に進学せず、建設現場を渡り歩き始めた。一度、オフィス街に建設中のビルの前でばったり会ったが、バイクを乗り回していた頃の気力は感じられなかった。高校を出るころに同じように気力を失って、死ぬのを待つだけになった三人。そのまま残り時間の中で死ぬのだろうと思っていたら、先週突然、照内が資材の下敷きになって死んだ。死後の手続きがここまで遅れたのは、細いパイプが数本、頭から体にかけて真横に貫いたから。地元に根を張る朝川からの久々のメールは、芸能レポーターのように細かいものだった。どれだけ子細に語られても、喪服を持っていないという事実は変わらないから、とりあえず黒っぽいスーツを選んだ。
一時間ほど電車に乗れば、地元に辿り着く。実家に寄る意味はないから、駅前のネットカフェに泊まり、明日の朝に朝川が車で迎えに来る段取り。次に戻ることがあるとすれば朝川が死ぬときだが、その場合はそれを連絡してくる人間がいないから、地元に戻るのは今回が最後かもしれない。だからこそ、ひとつだけ確認しておきたいことがある。
十四年前、受験が一か月先に迫った冬休み。三人で心霊スポットに行った。いつも集まる空き地の近くに建つ一軒家では、バイクの排気音や話し声に対する抗議の印のように、二階の窓が閉められた。宮市家。当時中学一年生だった娘の麻衣だけは仲が良く、同じ塾に通っていた。少し早めに着くと廊下で待ち伏せていて、『教えてー』と言いながら宿題で分からなかった箇所を見せてくるのが常だった。心霊系の話が好きで『地元にも最恐のスポットがある』と、目を輝かせて言っていた。それが、県民の森を抜けた先にある『赤い屋根の家』。二階建ての一軒家で、近寄っただけで呪われるという噂。ここまでが麻衣から聞いた話で、興ざめさせないように知らない振りをしたが、三人組でよくたむろするたまり場でもあった。馴染みの場所だったが、あの日は何かが違った。問題はそれが何だったか、全く思い出せないということ。
エンジニアという肩書は、正直なところ響きがいいだけで、実際には手先しか動かさない工員に近い。刈田祐は二浪して滑り込んだ大学をどうにか四年で脱出し、派遣ITエンジニアの仕事に就いた。担当の営業は空気と言ってもふさわしいぐらいに役に立たず、テンポよく仕事を繋ぐためには、常にアンテナを張っておかなければならない。大学の同期達は、刈田の『就職先』を知ったとき、業界を自分の腕一本で渡り歩いていくイメージを楽観的に語っていたが、今思い返せばその表情の中には『こいつ、大丈夫なのか』という心配も含まれていたと思う。今は、心配してくれる人間が周りにいない。刈田は給湯室で粉っぽいインスタントコーヒーを飲みながら、大学を出たばかりの自分の姿を思い出していた。振り返ればスタート地点というのはあちこちにあったが、ことごとく手遅れになってから気づいた。どこでどう追い越されたのかも分からない。ただ、企業の採用面接を避けていたのは事実だ。面と向かって話している内に、どこかで二浪という部分を問われるという恐怖心があった。そんなことどうでもいいと思えるぐらいの厚かましさを得てからは逆に、企業に面接を受けに行く機会がなくなった。
今年で三十二歳になるが、今のプロジェクトリーダーは二歳年下で、別室でコードレビューの最中。レビュー前のレビューで指摘された修正点は、四か所あった。時間がなかったから、何も修正していない。刈田はコーヒーの残りをシンクに捨てると、カップをゴミ箱に投げ捨てた。壁越しに聞こえた感じだと、リーダーは相当絞られている。リーダーの上司はパワハラ気質で、派遣のことは人として見ていないから怒ることもしないが、社員に対してはありとあらゆる罵詈雑言を飛ばす。拾えたフレーズは、『チンパンジーに製造させてんのか』。そのチンパンジーが自分ということになるが、そんなことをいちいち気にして、金曜日の定時直前にコードレビューをするような会社に取り込まれたくはない。
レビューが終わって出てきた年下のリーダーは、妙に年功序列を気にしている。青白い顔でこちらを見ると、文句を言うこともなく先に自席へ戻っていった。刈田がその後ろ姿を追っていると、後から出てきた上司は何も言わずにコーヒーのスティックを棚から抜き、外に出し忘れたゴミ袋を避けるように刈田の周りを迂回して、ポットの取っ手に手を掛けた。刈田は自席に戻り、まだ青い顔をしているリーダーの丸い背中を見つめた。気が早い上司のお陰でスケジュールはまだまだ余裕があるはずだが、その青臭い頭の中にあるのは、つい今上司から聞いた言葉だけだろう。指示通りに修正しなかったのはこっちの責任だが、リーダーには思い悩む必要なんかないと言ってやりたい。どれだけ罵詈雑言が思いつく人間でも、頭を灰皿で殴ったら死ぬのだ。上司も給料をもらうためにここにいるだけで、死ぬまでの時間潰しをしているだけに過ぎない。
はるか昔のスタート地点を今更振り返っても仕方がないが、高校時代はもっと熱意を持っていた。田舎だったが、遊びも勉強もバランスよくやり、公民館の一角にある塾に通っていた。よく遊ぶ仲間すらいた。ひとりは朝川快斗。水泳部でスポーツ特化型。もうひとりは照内実で、遊び特化型。不良とも言う。排気音のうるさいバイクによく乗せてもらった。
画面が消えないようマウスを動かしたとき、終業のチャイムが鳴った。事務員が帰るのに合わせるようにドアを開けてもらって外に出ると、隣席の汗臭い関取のような派遣もゴキブリのように息を潜めながらついてきた。罵詈雑言を頭の隅に追いやったリーダーが振り返っても、開発メンバーの派遣二人はいない。残業しろとも言われていないから、当たり前の話だ。刈田が駅までの道を早足で歩き始めると、関取が息を切らせながら横に並んで言った。
「あの、今日は用事あるんでしたよね?」
「はい」
刈田が短く答えると、関取は膝を庇うように歩きながら言った。
「来週に持ち越したらヤバいかと思ったんですが、怒られませんかね」
「ヤバかったら、先に言うんじゃないですか。何か言われましたか?」
刈田はそう言うと、返事を待たずにコンビニの前で足を止めた。一礼して関取を自分の空間から切り離すと、視線を遮るように店内に入った。何にもやる気が出ないし、頭に入らない。そしてそれは、自分だけではない。
朝川は、推薦で大学に入ってあっさり水泳をやめてしまった。そこからは実家の手伝いで、世間的には無職だ。照川は大学に進学せず、建設現場を渡り歩き始めた。一度、オフィス街に建設中のビルの前でばったり会ったが、バイクを乗り回していた頃の気力は感じられなかった。高校を出るころに同じように気力を失って、死ぬのを待つだけになった三人。そのまま残り時間の中で死ぬのだろうと思っていたら、先週突然、照内が資材の下敷きになって死んだ。死後の手続きがここまで遅れたのは、細いパイプが数本、頭から体にかけて真横に貫いたから。地元に根を張る朝川からの久々のメールは、芸能レポーターのように細かいものだった。どれだけ子細に語られても、喪服を持っていないという事実は変わらないから、とりあえず黒っぽいスーツを選んだ。
一時間ほど電車に乗れば、地元に辿り着く。実家に寄る意味はないから、駅前のネットカフェに泊まり、明日の朝に朝川が車で迎えに来る段取り。次に戻ることがあるとすれば朝川が死ぬときだが、その場合はそれを連絡してくる人間がいないから、地元に戻るのは今回が最後かもしれない。だからこそ、ひとつだけ確認しておきたいことがある。
十四年前、受験が一か月先に迫った冬休み。三人で心霊スポットに行った。いつも集まる空き地の近くに建つ一軒家では、バイクの排気音や話し声に対する抗議の印のように、二階の窓が閉められた。宮市家。当時中学一年生だった娘の麻衣だけは仲が良く、同じ塾に通っていた。少し早めに着くと廊下で待ち伏せていて、『教えてー』と言いながら宿題で分からなかった箇所を見せてくるのが常だった。心霊系の話が好きで『地元にも最恐のスポットがある』と、目を輝かせて言っていた。それが、県民の森を抜けた先にある『赤い屋根の家』。二階建ての一軒家で、近寄っただけで呪われるという噂。ここまでが麻衣から聞いた話で、興ざめさせないように知らない振りをしたが、三人組でよくたむろするたまり場でもあった。馴染みの場所だったが、あの日は何かが違った。問題はそれが何だったか、全く思い出せないということ。