やさしいあめ5
電車に乗り込むと、ドアにもたれかかって窓に映った自分を見た。どこにでもいる十七歳の高校二年生だった。誰かわたしが人には言えないことをしていると気づくだろう。
電車の中はいつも通りいろんなにおいが混ざり合っていて、気分が悪かった。
小テストの結果が悪かったと話す女子高生は、放課後したであろう化粧が全然似合ってなかった。スマホで動画を見ている女子大生は、スポーツ新聞を読みながらくしゃみをしたサラリーマンにも、ひとりごとを言っているおじいさんにも無関心で。優先席で疲れて顔をして眠っている男の人の前には、それを不満げに見ている杖を突いた元気そうなおばあさんがいて。美少女キャラの缶バッチをリュックサックにたくさんつけている男の人は、熱心にスマホゲームをしていて。ふと、取り出したハンドクリームのにおいが、保育園に通っていたときに使っていた糊のにおいに似ていると思って、その瞬間にトリップした。
年中さんのときに折り紙で作った腕輪が上手くできなくて壊したい衝動に駆られていたとき、一生懸命作ったもんね、お母さんよろこぶよ、きっと、と先生に励まされて、踏みとどまったけれど、家に帰ってみたら、姉が図工で描いた絵がすごい賞を取ったと言う話をしていて、褒めちぎられていて、自分の下手くそな腕輪など恥ずかしくて渡せるはずもなくて、こっそり隠したのだ。そのときの、悔しいとか、恥ずかしいとか、どうせ自分なんて、という思いがよみがえって、わたしはいつもそうだったよな、と、電車の中はいつも通り本当に気持ちが悪かった。
たぶん隣の女性から発せられているだろう強い柔軟剤の香りも気分が悪かったし、鼻が曲がりそうで、それを本当に良いと思っているなら嗅覚がおかしくなっているに違いないって思っていた。わたしは鼻が麻痺しそうだ。みんなが迷惑をしているだろうに、ただみんなその人との間に線を引いて、関わらないと決め込んで避ける。そういうみんなの呼吸のようなものを感じて、必要以上に他人の存在を感じる電車の中は本当に気分が悪かった。わたしの呼吸も誰かが感じているのだと思うと余計に気持ち悪かった。
ヒカリは今頃、この世界を恨んだりしているのだろうか。
最寄り駅で降りて、外に出た。空を見上げる。星の光は見えない。わたしの目は既に星を移すことを諦め、拒否しているのかもしれない。
そう思ったとき、目の前に眩しい光が見えた。
星!
「あっぶねえ!」
うしろから強い力で引っ張られ、尻もちを付いた。亮太だった。クラクションを鳴らした車は走り去った。車のライトを星と見間違えるなんて、どれだけ星に飢えていると言うのだ。通りで低い星だと思った。
「ぼーっと歩いてんじゃねえよ。死にたいのか!」
だったらどうだと言うのだ。そう言い返したい気持ちを抑えた。
「どうしてここに?」
「安い古着屋があるんだよ」
「そう」
わたしは立ち上がって、もう一度空を見た。
「亮太、星の光、見える?」
「感傷的になってる暇があったら、もっと自分を大事にしろ」
自分を大事にとはどうしたらいいのだろう。大切とはどうやるのだろう。わたしは自分に正直に生きているつもりだ。自分の声を聞くことは大切にしているとは言わないのだろうか。それともわたしは自分の声を聞き違えているのだろうか。
ヒカリに聞いてみようか。ヒカリは自分は馬鹿だと言うけれど、そんなことはない。ちょっと不器用なだけで、誰かに頼る術を知っていれば、もう少し幸せに生きていけると思う。ヒカリは本当に良い子なのだから。
わたしの高校の卒業が近づいたとき、ヒカリは花束をくれた。
「おめでとう」
「ヒカリ」
その花束を買うためのお金がどんなものだったのか、ヒカリがどんな思いをして稼いだものなのか、その花束をもらうのは申し訳なくて、けれど、そんな大事なものをわたしの花束なんかに使ってくれるなんて、有難過ぎた。もらえないなんて言えるはずもなかった。
「あたしが十八になってフーゾクデビューも果たせたら祝ってくれる?」
「何を祝うのよ」
「幸せになってねーって」
「幸せなの?」
「聞くな」
「じゃあ何を祝うの?」
「あと一年ある。その間に考えておいて。あたしには分かんない。祝われてもうれしくないかも」
「祝えって言ったのはヒカリちゃんだよ」
「どうせもうすぐ会わなくなるんだし。大学、東京なんでしょ?」
「そんなこと」
「理沙はもうここには来ない。戻ってくんな、絶対。戻ってきたら殺す」
ヒカリは強い口調で言った。
「あんたの顔を見てるとイライラする。あたしより数段恵まれているくせに、不幸な振りをする。不幸が何かも分かっていないくせに、自分がそうなんだって言い張る。ずるいよ。ムカつくんだよ。幸せになれ、この馬鹿女」
ヒカリと会ったのはその夜が最後で、連絡先も交換していなかったから、切れてしまった。けれど、ヒカリはどこで何をしているだろうかと思う。星の光は見えているだろうかと。ヒカリにはあの駅の反対側の出口が似合っていた。友達と笑い合いながらウィンドウショッピングをするなんて、すごく似合う。ヒカリが星の光を見ることが出来ないとして、その理由は喧噪や現実が曇らせているからではなく、現実があまりにキラキラ輝いているせいで目に入らないの方が断然似合う。恋をして、好きな男の子とデートをしてはにかんでいるのが似合う女の子だった。ヒカリのことを何も知らずにそう思うわたしは無責任だろうか。
ヒカリにはいつかきっと素敵な人が現れる。おとぎ話のように、導かれるような偶然と必然、そんな相手。そうして幸せになって欲しい。人の幸せをちゃんと祈ることが出来るヒカリが幸せになれないような世界だったら、わたしは神様を殺したい。
ほしのひかり、なんて名前を与えられて欲しても実際には見ることが出来ないなんて、そんなの無い。星の光も見られないほどの悲しい現実の中にいるなんて、そんな運命あってはならない。
作品名:やさしいあめ5 作家名: