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やさしいあめ4

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『美鈴』



 大人になったらみいちゃんをお嫁さんにしてあげるね。そう言ったときの自分をもう思い出すことはできない。どれほどの自信があって、どれほどの自分への期待と確信のもとにそう言ったのだろうか。僕は点で役に立たない、ダメ人間だ。

 美鈴は奔放に生きていた。僕とは真逆だ。美鈴は容姿も眩しいが、その生き方はもっと眩しい。お嫁さんにしてあげるね、と上から目線で言った僕が、今や美鈴に憧れている。あの頃の美鈴は泣き虫で、いじめられっ子で、僕が守ってあげなければ駄目だって、そう思わせたのに、今は逞しく生きていて、どこか危なげでもあって、とても魅力的な女の子になった。幼い頃の美鈴も、保護欲を掻き立てるという魅力があったのかもしれないけれど、比べ物にならないほどだ。

 それと真逆に生きている僕は、縛られるままに縛られる。

「耕平、大切なものには決して触れてはいけないよ。触れた途端に壊れてしまうから。壊したくないなら触れてはいけない」

 幼い頃、母にそう言われたことをきっかけに、その言葉に縛られていた。それが、クレヨンをすぐに折っててしまうことや、絵本を破いてしまったこと、おもちゃを壊してしまったことでパニックになって泣いて手が付けられなくなってしまうことからだったとしても、関係ない。幼い心に、大切なものは触れたら壊れてしまう、と刷り込まれ、それに縛られて生きることになった。

 物だけに注意していたときは幾分か楽だった。壊れてしまっても所詮物だったから。人も壊れるのかもしれない。そう思い至ったときから、僕の人生は大きく変わった。

 母の足が不自由と言う状態だと知ったとき、何度か母の足にしがみついた僕のせいで、僕が触れたせいで壊れたのではと強い恐怖を覚えた。

 僕は触ったものを壊してしまう。それは物だけではないのだと、しかも壊してしまったのが母の足だなんて、なんてことをしてしまったのだろう。

 触れたらいけないんだ。そう脳裏に刻まれた。触れると言うことを必要以上に恐れるようになった。

 そして、もう少し大きくなって、言葉で人を傷つけると知ったとき、悔やんだ。母の足が不自由という状態だと理解できていなかった頃、僕は心無い言葉を吐いていた。

「どうして普通に歩いてくれないの?」

 母は困ったように笑って、

「ごめんね、お母さん、歩くのが上手じゃないの。こうちゃんと違ってへたっぴなの」

 だから僕は、

「じゃあちゃんと練習しなよ。僕だって縄跳びが下手くそだったけど、ちゃんと練習して上手になったし、逆上がりだって練習して頑張ってできるようにしたんだから。お母さんもちゃんと練習して、ちゃんとできるように頑張りなよ」

 上手じゃないと言うから、元気づけるつもりでそう言った。上手じゃないなら練習する。練習すれば上手くなる。練習をしないのは怠け者だ。僕はそう思っていた。母が怠け者だなんて嫌だと思ったし、でも一向に歩くのが上手くならない母に、腹立たしく思ってもいた。自分は自転車も猛特訓して乗れるようになった。母もあれくらい頑張ればいいの。母の歩き方が変なのが、練習が足りないとか、怠けているわけではないと知ったとき、なんてことを言ってしまったまったんだろうと後悔した。

 言葉は凶器になるという人権の標語を見たとき、僕は母を言葉という凶器で壊そうとしてしまったのだ、後悔してもしきれない過ちを犯したのだと思った。

 僕は母の心を傷つけていたのだ。そのとき、母の何かが壊れたかもしれない。僕は二度も母を壊していた。僕の言葉の凶器で母は足の他にも何かに不自由になったのだろうか。

 そのときには、母の足が不自由なのは小さい頃に事故に遭ったせいだと分かっていた。それでも、母のことを傷つけた、壊した、と自分を責めることに変わりはなかった。心優しい少年では済まない思い込みだった。その思考からはみ出したものは否定して、触れたものは壊れるのだと恐れた。

 香椎の祖母は事故のことで心を痛めていて、わたしが幸の足の身代わりになっていれば、そう話しているのを何度も聞いていた。母の足は事故で不自由になったのだと理解しても、自分が触れたせいで、という思いはなくならなかった。

 そういったことがあって、僕は大切なものにはなるべく触れないようにしようと心がけてきた。美鈴に、お嫁さんにしてあげる、と言ったのはその頃だったか、その少し後だったと思う。美鈴のことをお嫁さんにしてあげる、と口走ったあとで、それは美鈴が大切だってことだ、と僕は焦った。美鈴に触れたら、美鈴も壊れてしまうのかもしれない。手を繋いできた美鈴の、その手を払ったとき、美鈴は泣いてしまった。美鈴のためにそうしたのに泣かれてしまうなんて、どうしたらいいのかと、悩んだ。

 弟が生まれて、僕は弟にもなるべく触れないようにしようと思った。僕は相変わらずにお気に入りのおもちゃほど壊していたし、好きな色のクレヨンほど折っていた。大好きな絵本は気がつくと破けているし、きっと触れた大切なものをこわしてしまうという能力が如何なく発揮されてしまっているのだろうと思った。だから、弟には触れないようにしようと細心の注意を払っていた。家族のだれからも、父からも母からも祖父からも祖母からも大切に扱われている存在はきっと僕にとっても大切なものだ。だから触れたら壊れてしまうに違いない。僕は弟を壊すなんてそんな悲しいことをしたくない。

 そうしたある日、幼稚園の年長になった弟が、泣いて帰ってきた。どうしたのかと思ったら、母の足のことで友達にからかわれたのだと言う。弟が自分と同じように言うのではないかとハラハラした。弟は自分のように触れたものを壊すとか、そんな片鱗は見せていなかったし、大切にしているものを正しく大切にして、それらは大切に扱われることに満足していたし、壊れることもなかったのだけれど、それでも言葉で母を傷つけてしまうのではないかと恐怖を感じた。

 僕は大切なものに触れるだけでそれを壊してしまい、そんな能力を制御できずに戸惑いながら生きてきて、すごく苦しい。弟はどうかそんな思いをしないでいて欲しかったし、何かを傷つけたり壊したりする恐怖も知らないで良いと思った。母を傷つけそうになったら僕が守ってあげようと、母のことも弟のことも背負った気になっていたそのとき。

「お母さんはわざとやっているわけじゃないのに、みんな酷い。お母さんがどんなに優しいのかも、おいしい料理作れることも、みんながすごいって言うお弁当を作ってるのがお母さんだってことも僕の服を作ってくれたり、花壇のお花をきれいに咲かせていることも、お歌が上手なことも知らないくせに、酷いんだ」

 弟は、母のために怒っていた。そのとき、思い知った。弟は浅はかな自分とは違うんだと。優しくて繊細で、人のために涙を流して怒ることもできるような子なんだと。自分勝手で傲慢な自分とは違うのだと理解した。例えば、誰もが誰もを壊す能力を持っていたとして、弟はそれすらも制御しているのだろう。僕とは違って、その能力を持っていたとしても、弟なら何も壊すことはないのだ。ただ、僕が劣っているだけのことに違いない。
作品名:やさしいあめ4 作家名: