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やさしいあめ2

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彼と結婚を決めたのは、彼となら幸せになれるって確信していたから。わたしは彼のことが大好きだし、愛しているし、彼もわたしのことが大好きだし、わたしは愛されているし、この人と一生一緒にいたいって思った。結婚式には最高にかわいいウエディングドレスを着て友達みんなに祝福されようって、そういう式を挙げた。幸せいっぱい。

 はじまった彼との暮らしは幸せそのものだった。彼のためにおいしい料理を作って、彼と暮らす部屋を掃除して、夜は彼と一緒に眠る。彼は仕事をがんばって、わたしはかわいいお嫁さん。そうやって過ごしてた。

 けど、彼がお義父さんの仕事を手伝うようになって、彼の実家で同居をはじめるとすべてが変わってしまった。お義母さんとお義父さんは、わたしを香椎家の嫁として扱って、香椎家の味を覚えるように言って、わたしと彼の過ごした時間に積み上げたものやそのときに食べていたレシピは全否定。そうじゃないんだよ、香椎家ではこうなんだよ、とわたしのやることなすことすべてに口を挟んだ。料理もそうだけど、掃除も洗濯も。おいしいねって彼と食べていた食事の時間は、愛美さんったら今日はこんなことをしてね、おかしいでしょう、とわたしの香椎家的に至らなかった部分を披露する時間になった。彼も両親に逆らうことはせず、わたしは思いを踏みにじられているというのに、何にも言ってくれなくて、まったく頼りにならない。彼への怒りもふつふつと湧いた。それに、日中のんびりとしていた時間も、お義母さんがいたんじゃ心が休まらないし、それにお義父さんとお義母さんの目があるここじゃ彼と堂々といちゃいちゃもできない。幸せだった暮らしは一変。窮屈でストレスばかりが溜まっていった。

 それでも、お腹に赤ちゃんができると、幸せ気分が少し戻って来た。パパもママもよろこんでくれたし、お義母さんとお義父さんも心なしかわたしへの当たりが柔らかくなった。彼と名前は何にしようか、なんて話しているときは本当に幸せな気分に浸れた。この子は幸せを運んできてくれる、天使みたいな子に違いないって思った。産まれてきたその子をみたときは感動でっばいだった。ありがとうって彼が言ってわたしは瞳に涙を浮かべて。わたしも大役を果たせた、ちゃんと産むことが出来たって、ほっとしていた。

 けど、大変なのはその先だっ幸と名付けたその子の世話があるというのに、 香椎家の嫁としての仕事は何一つ待ってくれなかった。わたしは母乳が出ずにミルクで育てていて、それもわたしは出来損ないのような気もした。おっぱいから母乳を上げている人はきっと母性や愛情がたくさんあるだ。わたしにはそれが足りないのだと思った。さっちゃんはわたしが抱いても全然泣き止まなくて、なのにお義母さんが抱くとピタリと泣き止んで、睡眠時間を削って世話をしているのはわたしなのに、おむつを替えてあげてるのはわたしなのに、まったく悲しくてやってられなかった。やっぱりわたしには母性も愛情も足りないのかもしれない。いつ泣き出すのかとびくびくして、泣き止まないその子にイライラして、もうずっと友達とランチにも行っていないって、美容院にも行っていないし、オシャレやお化粧にかける時間も減ったし、甘いお菓子に舌鼓を打つ時間もなくなったし、産まれる前はあんなにわたしのことを大事にしてくれた彼も、産まれたのに赤ちゃんの面倒を見てくれないし、わたしばかりが損をしている気がしてきた。ママにさっちゃんを預けて一人で羽根を伸ばしておいしいケーキ屋さんに行った帰り、わたしは運命的な出会いをした。

 坂の上で夕焼けを見ていたその人は、郵便配達の自転車をそばに止めていた。背が高くて、制服姿で、鼻筋が通っていた。空はピンク色と群青が幻想的に入り混じっていて、わたしも見とれた。こんな風に空を見るのは久しぶりだった。その人はわたしに気づくと、

「最高のマジックアワーですね」

 そう言った。心地の良い低い声で、お腹に響いた。

「マジックアワー?」

「朝焼けや、こんな幻想的な夕焼けの時間帯は数十分ほど。その時間をそう呼ぶらしいんです」

 そのとき鳥が一斉に羽ばたいて空へと舞い上がった。翼を翻して夕焼けに向かって行った鳥たち。わたしもあんな風に空が飛べたらいいのに。夕焼けに見入った。

 その日はそれで別れて、けれど、それからわたしはその人のことばかりを考えていた。あの心地の良い低い声をもっと聞きたい。あの声で名前を呼ばれたらどんなに良いか。好きです。なんて言われたら、何を捨てでもついて行きたくなってしまう。そんな声だった。わたしはさっちゃんを母に預けて、マジックアワーの時間に度々あの坂の上に行った。会うこともあったし、会えないこともあった。その人は、わたしに気づくと声をかけてくれて、少し話をした。その人に恋人や奥さんはいるのかは分からなかったけれど、わたしは勝手に独身と決めて、その人がわたしを攫ってくれることを期待した。わたしはここではないどこかへ行きたいと思っていた。願っていた。毎日がつまらなく感じて、くだらなく感じて、忙しいけれど退屈で、窮屈な檻に閉じ込められているようで、そこから出してくれる人を求めていた。それがこの人なんじゃないかと期待していた。

 香椎家のために、次は男の子を。なんてお義父さんとお義母さんが言って、わたしはそんな言葉聞きたくなかったし、香椎家の嫁、と言う単語にもうんざりだった。幸のことも夫である彼のことも、何もかも捨てて、新しい暮らしをしたいと思うようにもなっていた。そこに、あの人がいてくれる気もしていたから、わたしはついに思いを伝えることにした。好きです。そう言うとその人は少し困ったように、けれど、うれしいです、と言った。その人が休みの日に二人で会う約束もした。わたしに夫や子供がいることは話さなかった。わたしだけが主人公の物語をはじめたかったし、わたしだけを見て欲しかった。その人と二人きりで過ごした日、わたしは泣いて、わがままを言って、その人に抱いてもらった。もう何もかもが嫌なの。お願い、攫って。そう縋って泣いて困らせた。彼がそうはしないだろうことは分かっていたけれど、彼に抱き留められて鳴くのは心地が良かった。お腹に響く低い声で、好きなだけ泣いて下さい、と言われて、わたしは思う存分泣いた。夫や子供のことは話していないけれど、その人はすべてお見通しなようで、そうしてわたしだけを見てくれていて、すべてが心地好く。家に帰ると変わらない現実が、だらしなくくつろぐ夫や嫌味を言う義母がいたけれど、あの人と過ごす時間がわたしの救いになっていた。幸が癇癪を起して絵本を破いても、お絵描きのときに紙からはみ出して床や壁にクレヨンで描いてしまっても、怒らずに済んだ。けれど、幸さえいなければあの人と一緒になれるのに、そんな思いもあった。例えば、お鍋をかけているときにうっかりうたた寝してしまって、そのお鍋に触れてこの子がお湯を被ったら。例えば、買い物をしているときに少し目を離したすきに誘拐されたら。お散歩の最中に暴走車が突っ込んで来たら。そんな想像をした。
作品名:やさしいあめ2 作家名: