酔生夢死の趣意
5.文田さんと無礼講
私の同僚に、文田さんという方がいます。
身長160程度、やや小太りで頭髪が薄くなっている文田さんは、はっきり言ってしまえば至って普通の同僚です。仕事ぶりも性格も態度も特筆して秀でたところはなく、かといってあからさまに劣ったところもありません。
こうやって言うと地味な人と思われるかもしれませんが、この文田さん、わが社では知らない人はいないほどの有名人なのです。では、彼を有名にさせているのは一体何なのか。実は文田さん、この上ないほど、お酒を愛しているのです。
退社時間になると、文田さんはあいさつもそこそこに、誰よりも早く会社を出ていって、近くの居酒屋でちょっと引っ掛けます。いえ、あれは恐らくちょっとどころではありません。私が残業を終えて会社を出たときに、ちょうど居酒屋を出た彼を何度か目撃したことがありますが、もう完全にできあがっていて、千鳥足でふらふらと家路をたどっている様子でした。そのような生活を毎晩しているみたいなのです。
もちろん勤務前や勤務中に飲むことはしませんので、お酒臭い中、仕事をすることはありません。仕事ぶりそれ自体も全く問題はないのです。毎日のように飲んではいますが、二日酔いで休んだという話も聞きません。お酒は大好きなようですが、自制もきちんとできている方なのです。それに、肝臓を心配するほど、顔色も悪いわけでもありません。依存症を疑うレベルではなく、病気の心配もなさそうなので、われわれ仕事仲間も上層部も、取り立てて彼の行状に苦言を呈する事はなかったのです。
さて、ある日のことです。
仕事で大きな業績を上げたわが社は、ちょっとしたお祝いということで、宴会を開くことを決定しました。パートやアルバイトの方を含む社員全員に声を掛け、大きくて立派なお店に赴き、そこで大いに飲んで、食って、騒いで、仕事の疲れをしばしの間、忘れようというのです。
今の若い人たちの中には、そのような面倒な宴なんか行きたくない、という人もいるかもしれません。しかし、お祭り騒ぎや飲み会が大好きな連中が多いわが社では、ほぼ全員がこの宴会に参加することを決めました。われらが文田さんも、大好きなお酒がたらふく飲めるわけですから、断るはずがありません。当然のように参加を表明します。文田さんは、胸を張ってうまい酒が飲めるぞとばかりに当日を待ち焦がれながら、日課の定時退社から引っ掛けるのも欠かしてはいませんでした。
宴会の当日。
私たちはすてきな宴会席に通され、各々席に座ります。全員にグラスが回され、乾杯のビールが注がれていきます。文田さんも、グラスにビールをあふれる寸前まで注ぎ入れて、今か今かと口をつける瞬間を待っています。そのとき、ちょうど乾杯の音頭を取った社長があいさつを始めました。
「皆さん、お疲れさまでした。皆さんのおかげで、今回、非常にいい仕事ができました。そこで、ささやかですがこのような席をご用意いたしました。本日は無礼講ということで、大いにやってください。それじゃぁ、カンパーイ!」
この言葉、いや、具体的には社長の『無礼講』という言葉が聞こえた途端、文田さんの顔つきが変わったのを私は見逃しませんでした。乾杯をし、周囲がぐびぐび喉を鳴らしている最中、一人、文田さんはグラスをコトリと膳に置き、店員を呼び寄せていきなりウーロン茶を注文し始めます。しかも、ウーロン茶を頼んだ後も、ずっと何かを深く考えているのです。
その様子は、頼まれたウーロン茶が届いても、全く変わることはありませんでした。膳の隅に置かれたビールのグラスには、もう目もくれません。なみなみと金色の液体をたたえたまま、グラスは放っておかれているのです。
宴が進み、文田さんの酒好きを知る同僚が何人か、彼の元にお酌に訪れました。しかし、文田さんはそれを言葉少なに断り、終始、ウーロン茶で唇を湿らせるだけでした。
そうこうしているうちに、宴会はは終りを迎えてしまいます。普段の文田さんなら二次会、三次会も当たり前なのですが、今日はどこにも行くこともなく、一人でどこかへ行くこともせず、しらふで真っすぐ家へと帰っていくだけでした。
いったい、文田さんはどうしたのでしょう。様子を見ている限り、彼は、社長の『無礼講』という言葉に何か引っかかりを覚えたようでした。もしかしたら、過去、無礼講と言われた飲みの席で、何かあったのかもしれません。
文田さんはこの後も、相変わらず定時で退社して、飲みに行くという生活を続けています。時間の都合が合うときなどは、私も文田さんとともにのれんを潜ったりもします。しかし、たとえお酒の席でも、文田さんに、あのときの宴会の席でお酒を飲まなかった理由や、『無礼講』の席で何があったのかを、面と向かって聞くことはできません。何となく、聞いてはいけないような気がするのです。
今宵も、上機嫌な文田さんは、赤ら顔でコップを何杯も空にしています。ですが、横で酌み交わしている私には、彼のその赤ら顔がどこか仮面のように思えて、その奥に別の表情が潜んでるように見えて仕方がないのです。