エクスカーション 第2章 (磁気異常)
第2章 磁気異常
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伊丹を8時に離陸した便は10時前に新千歳空港に着いた。岸田と田島はその日のうちに樽前山に登る計画を立てていた。わずか3日の休みなので初日に樽前山を登り、2日目には蝦夷富士で有名な羊蹄山を登る、3日目は東西小学校を訪問することにしていた。新千歳でレンタカーを借りた2人は田島の運転でまず支笏湖に向かった。湖畔は霧雨にけぶり見通しがなかった。天気が良ければ湖畔から樽前山が望めるのだが、昨夜からの前線の移動が予報よりも遅れているようであいにくの空模様となっていた。しかし、天気の回復は間違いないと踏んでいた2人は湖畔にあるレストランで昼食を済ませると7合目にある登山口の駐車場を目指し、豊かな森の中の車道を走らせた。レンタカーが駐車場に着くころには霧が薄くなり空の青みが透けて見え始めた。登山靴に履き替えた2人は整備された登山道をゆっくり登り始める。どんな時も登り始めは急がないという知恵はこれまでの登山で身をもって学んできたことである。登り初めはどうしても気がせいて先を急ぎがちになるが、それをぐっとこらえて20~30分はゆっくり登るのがバテないコツだ。ウオーミングアップが終わるころ、振り返った2人は支笏湖の湖面が現れたのを目にする。雲が湖面をなでるように流れ、湖を囲む山の切れ目から流れ出ていた。登山道は新しい火山の山らしく、すぐに低木帯が終わりイタドリ科の草が砂礫に生えるザレた道になる。そして、勾配は緩く、なだらかな山腹を斜め一直線の道になる頃、あたり一帯はすでに夏の日差しの下にあった。火山が成す礫で構成される荒れ地であるが、柔らくて生理的に心地よい曲線の重なりを左手に眺めながら2人は外輪山周遊コースへの分岐点となっている直線の終点に着いた。
「おお~っ」 分岐から北側にある溶岩ドームが目に入った岸田は思わず声をあげた。
「こ、これは・・・すごい!」 田島もほぼ同時に声をあげた。
2人の視界の先には丸くすり鉢状に窪んだ底から辺りのとは色も形も全く異質なドームが湧き上がるように座していた。柔らかさとたおやかさのフォルムの中に唐突とゴツゴツとした黒い塊という異質の組み合わせ、そしてドームの一角からは噴気が立ち昇っているのが見える。2人ともこのような地球離れした景観を見るのは初めてであった。異なる次元から時空の裂け目を破って突き出したかのような異様さと迫力に2人は感嘆の言葉しか出なかった。
「なんだ、この山、背筋がぞくっと来たぞ!」
「ああ、おれも」 田島は岸田に同感を伝えた。
「こんな遠足登山の山頂がこれかあ・・・」
2人はしばし溶岩ドームに見入った。そして、ドーナツ状の外輪山尾根を登りプレートが立つ東山山頂に着いた。山頂からの溶岩ドームは西側にやや見下ろす位置にあり、その黒い異容は変わらず火口のすり鉢の中央に突き出ていた。ドームの左手には外輪山のもう一つの山頂である西山がおとなしく添っている。山頂東側のなだらかに落ちる山裾は樹海を作り、その先に見下ろす支笏湖の湖面は深い青に変わっていた。心地よい山裾の柔らかい広がりと青い支笏湖を眺めた2人が再び振り返ると鬼のように立つ溶岩ドームはその黒さを増しているようだった。
「これはすごい山を発見したな。あの2人もさぞかし驚いただろう」
「うん、そのことだ。さっきからあの2人のことを考えていたんだが、まあこれほど特異と言えば特異な山だと言えるが人体に何らかの影響を与えるようなことは考えられるかな?」
「雷に会ったとか噴火があったとか、そういうこともなかったと言ってたしなあ・・・」
2人は注意深くあたりを見回すのだが、そこには美しい北の大地、山々と湖、それに黒いドームがあるだけだった。山頂で持参したテルモスに入れたコーヒーを飲み、2人はまた西山との分岐点まで下った。
2人が分岐点について、見納めにもう一度溶岩ドームを眺めていた時、ドームに向かって伸びる道らしきところを歩いている人間を認めた。
「人が来る!」 岸田は幻でも見ているかのように呆然と口から声が漏れた。
「女の人みたいだな」 岸田の横で目を細めながらドームを見ていた田島が返した。
2人はその女が自分たちの方に向かってくることを確認し、その到着を待つことにした。
「こんにちは」 言葉を先に発したのはその女の方であった。
「こんにちは・・・ あの~今、あのドームの方から来られましたよね」 岸田はあいさつの後すかさず聞いた。
「ええ、溶岩ドームに行っていました」
「あそこは登れるんですか?」 今度は田島が聞いた。
「いえ、上には登ってません。立ち上がりの縁に行ってました。ご覧のように噴気も上がっていますし有毒ガスの危険がありますからドームには登れません」
「ドームの縁ですか?」
「ええ、縁です。でも、ほんとは縁にも行ってはいけないんです。この外輪山から内側は規制されていて入れません。私の場合は研究の都合で特別の許可をもらっているので・・・」
「研究ですか?」 岸田がすかさず聞き返した。
「ええ、登山じゃなくて火山岩の研究で来ていたんです。正確にはこの間のチームでの調査の時の忘れ物を取り来たということなんですが」
「火山岩の研究ですか?」
「ええ、北海大学の地球科学専攻の研究員なんです。先週研究室のみんなで来たんですが、その時持って来ていた工具を置き忘れてしまって、今日一人で取りに来ていたわけです」
「地学の研究者さんですか… びっくりしましたよ、あのドームから歩いてくる人が見えたんで何者かと思いました。それも女性だったので・・・」 岸田は感じたままを伝えた。
女性は見たところ30前後、登山用の服装に20リットル程度の赤のザックを背負っていた。ほっそりした体つきながら立ち姿は野外を歩き慣れた人のものとして安定を感じ、化粧気のない顔は小麦色に焼け、肩辺りまである黒い髪は後ろで結わえられ広めのつばの帽子から伸びた尾のように垂れていた。やさしい目と話すたびにうっすらと表れる微笑は人当たりの良さを感じさせ、2人に好感を与えるには充分であった。とりわけ岸田はその女性の表情や仕草に何かしら惹きつけられるものを感じていた。
「失礼ですけど、女性の地学者さんって、珍しいんじゃないですか? いや~その、偏見とかそんなものは全くありませんけど」 田島が問った。
「そうですね、少ないです。でも、今は増えています。地学だけじゃなく物理学や宇宙をやっている女性もいますよ。私は出戻りみたいなものですけど・・・」
「出戻りですか? 何か訳ありなんですね」
「はい、大学卒業していったん畑違いの企業に就職したんですけど、やっぱり地学をやりたくて会社を辞めて去年から院生として研究しています」
「へえ~ 地学って面白いですか?」
「もちろん、面白いです。あんなドームに行ったりしてワイルドなところもあるので。それに私は昔から石が好きだったんです。それで今は溶岩の研究をしています」 笑みながら返す表情には無防備とも感じられる嬉しさが表れていた。
「あっ、すみません。足を止めてしまって長々と・・・」岸田はもっと話を聞きたいと思いながらも初対面の女性をそれ以上引き留めることに気づかって言った。
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伊丹を8時に離陸した便は10時前に新千歳空港に着いた。岸田と田島はその日のうちに樽前山に登る計画を立てていた。わずか3日の休みなので初日に樽前山を登り、2日目には蝦夷富士で有名な羊蹄山を登る、3日目は東西小学校を訪問することにしていた。新千歳でレンタカーを借りた2人は田島の運転でまず支笏湖に向かった。湖畔は霧雨にけぶり見通しがなかった。天気が良ければ湖畔から樽前山が望めるのだが、昨夜からの前線の移動が予報よりも遅れているようであいにくの空模様となっていた。しかし、天気の回復は間違いないと踏んでいた2人は湖畔にあるレストランで昼食を済ませると7合目にある登山口の駐車場を目指し、豊かな森の中の車道を走らせた。レンタカーが駐車場に着くころには霧が薄くなり空の青みが透けて見え始めた。登山靴に履き替えた2人は整備された登山道をゆっくり登り始める。どんな時も登り始めは急がないという知恵はこれまでの登山で身をもって学んできたことである。登り初めはどうしても気がせいて先を急ぎがちになるが、それをぐっとこらえて20~30分はゆっくり登るのがバテないコツだ。ウオーミングアップが終わるころ、振り返った2人は支笏湖の湖面が現れたのを目にする。雲が湖面をなでるように流れ、湖を囲む山の切れ目から流れ出ていた。登山道は新しい火山の山らしく、すぐに低木帯が終わりイタドリ科の草が砂礫に生えるザレた道になる。そして、勾配は緩く、なだらかな山腹を斜め一直線の道になる頃、あたり一帯はすでに夏の日差しの下にあった。火山が成す礫で構成される荒れ地であるが、柔らくて生理的に心地よい曲線の重なりを左手に眺めながら2人は外輪山周遊コースへの分岐点となっている直線の終点に着いた。
「おお~っ」 分岐から北側にある溶岩ドームが目に入った岸田は思わず声をあげた。
「こ、これは・・・すごい!」 田島もほぼ同時に声をあげた。
2人の視界の先には丸くすり鉢状に窪んだ底から辺りのとは色も形も全く異質なドームが湧き上がるように座していた。柔らかさとたおやかさのフォルムの中に唐突とゴツゴツとした黒い塊という異質の組み合わせ、そしてドームの一角からは噴気が立ち昇っているのが見える。2人ともこのような地球離れした景観を見るのは初めてであった。異なる次元から時空の裂け目を破って突き出したかのような異様さと迫力に2人は感嘆の言葉しか出なかった。
「なんだ、この山、背筋がぞくっと来たぞ!」
「ああ、おれも」 田島は岸田に同感を伝えた。
「こんな遠足登山の山頂がこれかあ・・・」
2人はしばし溶岩ドームに見入った。そして、ドーナツ状の外輪山尾根を登りプレートが立つ東山山頂に着いた。山頂からの溶岩ドームは西側にやや見下ろす位置にあり、その黒い異容は変わらず火口のすり鉢の中央に突き出ていた。ドームの左手には外輪山のもう一つの山頂である西山がおとなしく添っている。山頂東側のなだらかに落ちる山裾は樹海を作り、その先に見下ろす支笏湖の湖面は深い青に変わっていた。心地よい山裾の柔らかい広がりと青い支笏湖を眺めた2人が再び振り返ると鬼のように立つ溶岩ドームはその黒さを増しているようだった。
「これはすごい山を発見したな。あの2人もさぞかし驚いただろう」
「うん、そのことだ。さっきからあの2人のことを考えていたんだが、まあこれほど特異と言えば特異な山だと言えるが人体に何らかの影響を与えるようなことは考えられるかな?」
「雷に会ったとか噴火があったとか、そういうこともなかったと言ってたしなあ・・・」
2人は注意深くあたりを見回すのだが、そこには美しい北の大地、山々と湖、それに黒いドームがあるだけだった。山頂で持参したテルモスに入れたコーヒーを飲み、2人はまた西山との分岐点まで下った。
2人が分岐点について、見納めにもう一度溶岩ドームを眺めていた時、ドームに向かって伸びる道らしきところを歩いている人間を認めた。
「人が来る!」 岸田は幻でも見ているかのように呆然と口から声が漏れた。
「女の人みたいだな」 岸田の横で目を細めながらドームを見ていた田島が返した。
2人はその女が自分たちの方に向かってくることを確認し、その到着を待つことにした。
「こんにちは」 言葉を先に発したのはその女の方であった。
「こんにちは・・・ あの~今、あのドームの方から来られましたよね」 岸田はあいさつの後すかさず聞いた。
「ええ、溶岩ドームに行っていました」
「あそこは登れるんですか?」 今度は田島が聞いた。
「いえ、上には登ってません。立ち上がりの縁に行ってました。ご覧のように噴気も上がっていますし有毒ガスの危険がありますからドームには登れません」
「ドームの縁ですか?」
「ええ、縁です。でも、ほんとは縁にも行ってはいけないんです。この外輪山から内側は規制されていて入れません。私の場合は研究の都合で特別の許可をもらっているので・・・」
「研究ですか?」 岸田がすかさず聞き返した。
「ええ、登山じゃなくて火山岩の研究で来ていたんです。正確にはこの間のチームでの調査の時の忘れ物を取り来たということなんですが」
「火山岩の研究ですか?」
「ええ、北海大学の地球科学専攻の研究員なんです。先週研究室のみんなで来たんですが、その時持って来ていた工具を置き忘れてしまって、今日一人で取りに来ていたわけです」
「地学の研究者さんですか… びっくりしましたよ、あのドームから歩いてくる人が見えたんで何者かと思いました。それも女性だったので・・・」 岸田は感じたままを伝えた。
女性は見たところ30前後、登山用の服装に20リットル程度の赤のザックを背負っていた。ほっそりした体つきながら立ち姿は野外を歩き慣れた人のものとして安定を感じ、化粧気のない顔は小麦色に焼け、肩辺りまである黒い髪は後ろで結わえられ広めのつばの帽子から伸びた尾のように垂れていた。やさしい目と話すたびにうっすらと表れる微笑は人当たりの良さを感じさせ、2人に好感を与えるには充分であった。とりわけ岸田はその女性の表情や仕草に何かしら惹きつけられるものを感じていた。
「失礼ですけど、女性の地学者さんって、珍しいんじゃないですか? いや~その、偏見とかそんなものは全くありませんけど」 田島が問った。
「そうですね、少ないです。でも、今は増えています。地学だけじゃなく物理学や宇宙をやっている女性もいますよ。私は出戻りみたいなものですけど・・・」
「出戻りですか? 何か訳ありなんですね」
「はい、大学卒業していったん畑違いの企業に就職したんですけど、やっぱり地学をやりたくて会社を辞めて去年から院生として研究しています」
「へえ~ 地学って面白いですか?」
「もちろん、面白いです。あんなドームに行ったりしてワイルドなところもあるので。それに私は昔から石が好きだったんです。それで今は溶岩の研究をしています」 笑みながら返す表情には無防備とも感じられる嬉しさが表れていた。
「あっ、すみません。足を止めてしまって長々と・・・」岸田はもっと話を聞きたいと思いながらも初対面の女性をそれ以上引き留めることに気づかって言った。
作品名:エクスカーション 第2章 (磁気異常) 作家名:ひろし63