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エクスカーション 第1章 (感覚異常)

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第一章    感覚障害

  1

 昨夜のうちに幾分か冷やされた地表の空気がまだ肌に清涼感さえ与える朝のひと時、加藤は車を駐車場に停めると、遊歩道から山道に入り古代から往き来されていたという峠に出た。正面には両側から流れる山裾が一重の広い襟を合わせている。手前に近江南部の平野、そして霞がかかった細長い琵琶湖の帯の背後には比叡山の屏風が立つ。眼前に広がる逆三角形の織物の真ん中を登りの新幹線が裁断するように通り過ぎていった。散歩コースとしていつも立ち寄り幾度となく目にしてきた光景ではあるが、今朝のそれにはどこにも色はなかった。眼前の灰色で無機質にも感じる景観を眺めやった後、加藤は来た道を駐車場に向かって下りた。

「加藤さん、加藤良男さん!」
「はい」加藤は右手を軽く挙げ呼名に応じた。
「どうぞ、お入りください」白衣の看護師は加藤を認めると診察室のなかを指しながら言った。
加藤は待合室のベンチで1時間余り色のないテレビの画面を観ながら苛立っていた。テレビの番組は代
わり映えのしない内容のワイドショーで、芸能人の麻薬事件をくどくどと流し、代わり映えのしないコメンテーターたちがさも正義を語るかのような口ぶりでコメントを吐いていた。加藤は長い待ち時間と見ないでもよかったテレビによる苛立ちを抑えながら立ち上がり、診察室の入り口に向かった。
「お待たせしました」看護師の女性はもう一度加藤に申し訳なさそうに診察室に招き入れた。加藤は看護師の招きに応じて診察室の中に入り、白衣の男医の手が指し示す丸椅子に座った。
「どうされましたか?」診察室の扉を看護師が閉めると同時に男医は加藤に尋ねた。
「はい、それがその・・・昨日から色が見えないんです」 加藤のなかでは先ほどからの苛立ちは消え、すがるような気持ちで医師に答えるのであった。
「昨日から色が見えない?」
「はい、昨日から色が全く分からないんです。赤も青も緑も・・・」
「徐々にというのではなく、突然にですか?」
「はい、昨日の朝からです」
「何か昨日までに頭を打撲するなどといったようなことはありませんでしたか?」
「いえ、特にこれと言ったことはないんです。目をどこかに打ち付けたとか頭を打ったとか、そういうことは全く覚えがないです。先週、6月の末から北海道に旅行に行っていたのですが、昨日、帰りのフェリーで朝起きてみると見えなくなっていたんです」
「ほお~ 北海道ですか? フェリーでね・・・」
「ええ、久しぶりにのんびりした旅行でした」
「それで・・・一昨日までは見えていたのですね?」
「はい、夜にフェリーに乗ったのですが眠るまでは全く問題なく見えていました」
「お仕事はされていますか?」
「はい、自然公園の管理の仕事をしています。パートタイマーです。植栽や遊歩道、スポーツ施設の手入れをしています」
加藤良男は61歳になる中年で、40年近く勤めた製薬会社を一昨年に定年退職し、現在は自宅近くにある自然公園管理事務所にパートとして勤めている。長年に亘り営業業務を担い、その半分は中間管理職として課の取り仕切りを兼ねた責を担ってきた。退職後は好きだった自然にかかわる仕事をしてみたいとの思いから、それまでとは打って変わって植栽や遊歩道の手入れなど公園の維持管理という野外での仕事をしてみることにしたのだった。
「お仕事上での心当たりはどうでしょう?」
「ええ、特には思い当たりません。旅行に出る前も問題なく見えていましたし・・・」
「そうですか。では、視力の方はどうでしょう? 文字や物が見にくくなったということはありませんか?」
「それは、10年ほど前から老眼がすすんで新聞なんかは眼鏡をはずさないと見えませんが、外した状態だときちんと見えます。遠くのものも眼鏡をつけていればはっきり見えます。見え自体は問題ないと思うんですが・・・」
医師は加藤の答えを聞くと少し何かを考えるかのように間を置き、デスクの引き出しから石原式の色覚検査表を取り出して加藤の目の前に差し出した。
「この円の中に数字が書かれているのですが読めますか?」
「はあ・・・数字ですか?」
医師は丸模様で描かれた円の中心あたりを指さしてもう一度言った。
「ええ、数字です。色覚に異常のない人は、この模様の中に数字が浮かび上がるように見えます」
加藤は模様に目を近づけたり離したりして見るのだが数字は見えなかった。
「こちらはどうですか?」医師は「7」が浮かび上がるカードに変えた。
「・・・これも見えません」
「では、これは?」
「あ~ 視力テストの円で、上が切れているようなものが見えます。でも、円の色は灰色です」加藤は濃淡の違う灰色の水玉模様を続けてみているうちに気分が悪くなりそうだった。幸い水玉模様での検査はそれで打ち切られ、医師は検査表をデスクに置き、席を立ちながら診察室の中ほどにある器具に近づいて加藤に言った。
「それでは、こちらに来ていただいて、この器械で検査してみましょう」
医師の示した器具はアノマロスコープというもので、色覚異常を診断する特殊な検査装置である。この器具は患者に黄色い光と赤と青を混ぜてできた黄色い光を比較させ、同じに見える等色の条件から色覚を診断するものである。
「では、右眼から始めましょう。右眼でここから覗いてみてください」 そう言って医師は機器の前に座った加藤にスコープの覗き口を指さした。加藤は医師の指示通り右眼を円形の覗き口に近づけて光に意識を集中する。医師は、機器の光を調節しながら加藤に繰り返し見え具合を確認した。そして、右眼に続き左眼の検査も終え、加藤が明らかに色覚異常をきたしていることを確認した。
元のデスクと椅子に戻った2人は対面しなおし、医師は先ほどの検査表とは違う丸が円形に10個並んでいる色見表を差し出して加藤に確認するように訊ねた。「これらの丸の色、どうでしょう? 見分けがつかないですか?」
「はい、全部灰色です。濃淡はありますが・・・」
「わかりました。あなたは確かに色覚異常の状態ですね。ただし、先ほど朝起きたら色が分からなくなっていたという話ですが、特に原因となることがなく急に異常が出たということが引っかかるんです。些細な事でも結構ですので前日までのことで何か思い当たるようなことはないですか? 発熱したとか片頭痛があったとか、手指がしびれただとか、そういう感覚的な違和感でもいいんですが」