Straight ahead
一
電子レンジのタイマーが止まり、その甲高いブザー音にテーブルを囲む四人全員が反応した。森島愛華が椅子を引くとひらりと立ち上がって、野菜カレーのパウチを中から取り出した。娘の花梨がコピーのようにあとをついていき、忙しなく動く愛華の手で元の席に戻されると、途中まで飲んでいたジュースに再度取り掛かった。愛華は、パウチの封を切ると、あらかじめ皿に片寄せされたご飯の反対側へ流し込み、直接パウチから胃に流し込みたい本音を隠すように、テーブル全体に愛想笑いを振りまいた。三十一歳で、花梨は七歳。足してようやく一人前になるような危なっかしさで、それは二人と向かい合わせに座る源と綿野も同じだった。
源は下の名前を玄と名づけられ、幼少の頃から『みなもとげん』と書き続けていたが、苗字も音読みすると下の名前と同じ『げん』であることに同級生が気づき、源は小学校四年生から中学校三年生までの間、からかってきた人間を例外なく暴力で跳ね返してきた。高校に入ってからは身長が百八十センチに達し、威圧感のある体格ではないにしても、三十六歳になる今まで名前のことで暴力に頼る必要はなくなった。森島家の中だけは例外で、動物園のパンダのように『ゲンゲン』と呼ばれている。
「それ、野菜入ってるか?」
源が聞くと、愛華はパッケージを拾い上げて、長いまつげを追い払うように何度か瞬きをすると、言った。
「ルーに溶けてるって、書いてあるね」
「でも溶けた現場、見てへんやん」
源が言うと、愛華は鳥のように大きく開いた目を向けて、笑った。
「言うねー」
新しい話題に追いつくように、味噌汁を胃袋へ放り込んだ綿野が、言った。
「冷めるで」
綿野は源と同じ三十六歳で、幼少期から源と同じ学区で過ごしたが、実際に接点を持ったのは大学生になってからだった。単発で荷捌きのアルバイトに入り、休憩時間に会話したとき、似たようなアパートで似たような苦労をしている家族に育てられ、同じ公園で遊んだことすらあるということを知った。通っている大学は違ったが、その時に生まれた付き合いは十五年に渡って続いている。源に比べると、綿野は少し背が低い上に細身で生気がなく、頭髪も何かを諦めた後のように抜け落ちたきり、戻ってくる気配はない。クレジットカードの幅ぐらいしかない狭い額を囲むように針金のような毛が密生する源とは、対照的だった。
忙しなくカレーを飲むように食べ始めた愛華は、時折むせては花梨に背中をとんとんと叩かれ、懲りずに同じスピードで再開するということをしばらく繰り返していたが、食べ終えると同時に、額に浮いた汗をぬぐいながら顔を上げた。
「ごちそうさま」
この忙しない食事会は、二年に渡って続いている。愛華は大学を出てすぐ、ITエンジニアの職に就いた。生物学上の花梨の父親は、この頃に交際していた柿本武という男で、花梨が一歳を迎えた辺りで離婚するまでは、テーブルの源と綿野が座っている側にいた。大学生だった愛華から見ると、三歳年上の柿本は世の中の仕組みに詳しく、何をさせてもスマートで羽振りがよく見えた。実際、資金は豊富に持っていたが、柿本の主な仕事は電柱に貼られている『車で資金作り』と書かれているチラシの『中の人』で、車を担保に金を借りて焦げ付いた人間から車を取り上げる役にも就いていた。付き合っていた時期から、ある日突然今までと違う車で現れるということがあり、大学生だった愛華はその度に不思議に思っていたが、回収された車だということを知ったのは、花梨がお腹の中で存在感を増してきた頃だった。
「ごちそうさま」
花梨が言い、愛華は芽キャベツが端に寄せられているのを見つけると、首を横に振った。
「んーんー、大事なものを忘れていますでしょ」
源が自分の腹の肉を掴み、大げさに揺すった。
「花梨ちゃん、こうなってまうよ」
綿野がニット帽を持ち上げ、間伐されたような頭を見せながら言った。
「これもね」
「それはならんやろ」
源が言い、綿野がニット帽を目深にかぶり直したとき、少し笑った花梨はプレッシャーに負けたように芽キャベツを食べ切った。
「偉いねー」
愛華が頭を撫でると、花梨はそれでスイッチが入ったように椅子から降り、テレビ前の定位置に置いてある英語のドリルに取り掛かった。綿野がニット帽の具合を調整しながら言った。
「英才教育やな」
「英語は損にならんと思う」
愛華が言ったとき、ドリルを掲げた花梨が言った。
「ママ―、タコって英語やったらなにー?」
「なんやろ、辞書で見てみ」
愛華は花梨の後姿をちらりと見ると、大人だけになったテーブルの空気を守るように、源と綿野に視線を戻した。
「んでさ」
愛華が初めてダークウェブに自分の居場所を見つけたのは、大規模なクレジットカード情報流出事件が起きた年だった。クレジットカードの情報やパスワードリスト、様々な個人情報が売買されていて、人には言えない厄介な相談事まで、ありとあらゆる取引のスペースとして活用されているということを知った。自身で書いたスクリプトを売るところからスタートし、二年前からは掲示板の管理人をやっている。人に言えないゴールを持つ人間と、解決手段を持つ人間のマッチングをするだけの、シンプルな犯罪掲示板。事件が起きるたびに細々と溜め込んだパスワードリストも小遣い稼ぎに使っている。
「その前に、いいかな? 今日、肌ツヤ良くない?」
愛華が本題に入る前に、源が言った。
「えー、分かる?」
愛華が両頬に手をやると、源は呆れたようにため息をついた。
「こないだカードの明細見てたら、化粧水を買った履歴があってんけど」
「明細見たんや。ごめーん、金欠で」
大手のカード会社から流出した情報の中に『ミナモトゲン』という名前を見つけた愛華は、それが自分の手元から外に出て行かないよう配慮する代わりに、金欠のときは節度を持って、決済に利用していた。
「ほんま、普通にゆうてくれたらええのに」
源が腹を揺すりながら笑い、綿野はそのやりとりから一歩引くように鼻で笑った。愛華は小さく咳ばらいをすると、スマートフォンを操作して写真を表示し、二人に見せた。物理の仕事も、根強く残っている。
「黒のEクラス、五年前の型かな。あとで送ります」
債権回収の仕事は、今でも続いている。柿本は二年前に『足を洗う』と大見得を切って以来業種を転換し、今に至っている。もちろん、テーブルの向かいに男が二人いるのは今でも違和感があるが、源と綿野は波長が合い、色んな人間が出入りする森島家のボディーガードとして、頻繁に顔を出してもらうようにしている。
綿野が鼻を鳴らすと、Eクラスの外見をじっくりと見つめた。
「これ、担保にするか? どんな資金繰りよ」
「二百万やって。しかも焦げ焦げよ。怪しいよなあ。大手では借りられへんのちゃう?」
愛華はそう言って、源の方を向いた。
「とりあえず、ソフトに通り魔してよ。オマケが出てきたら、また教えてね」
作品名:Straight ahead 作家名:オオサカタロウ