Heads up
電車は繁華街のぎらつくネオンを抜けて、落ち着いた雰囲気の住宅街を縫うように走り、少し行き過ぎたところで思い出したように停まる。それが、最寄りの駅。今日の電車も同じで、はるかはスマートフォンに収めた亜衣の絵をスクロールしながら思った。この色のセンスは、ほんとに何なんだろう。それとなく『正しい色』を教えたいが、幼稚園の先生は特に何も言わないし、亜衣が独特な色に塗った絵を褒める園児もいるぐらいなのだ。
最近の作品だと、無地の画用紙に、細長い青緑色の部屋の奥に天使の羽が描かれていたり。あの子には一体、何が見えているのだろう。最寄り駅に着いたことを荒っぽいブレーキで知らされたはるかは、慌てて立ち上がってホームに降りた。改札を出て住宅街に向かう道を歩いている途中、公園の隣に飾り付けられたクリスマス用のイルミネーションにカメラを向ける人影に気づいた。手持ちで、基本に忠実な構え方。頭の中にカメラの設定がどうなっているかということが呼び起こされたとき、そのカメラを構えているのが高知いずみだということに、はるかは気づいた。いずみは連続してシャッターを切ると、辺りを見回し、はるかに気づくとぺこりと頭を下げた。はるかは同じように会釈を返し、イルミネーションの前まで歩いていった。
「こんばんは、カメラお好きなんですか」
「はい。最近、飾り付けが始まったみたいで。手持ちだとキツイですね」
いずみはそう言うと、整った歯を見せて笑った。いつも前髪で隠れていて素顔が分からなかったが、今日はファインダーを覗くためにヘアピンで留められていて、その顔立ちは予想外に明るく、表情豊かだった。はるかは家の方向をちらりと見た。亜衣のお迎えは充だし、久々の出社に気を遣って夕飯は『町田充プロデュース』だから、話す時間はある。夫同士が打ち解けたのだから、妻同士も。そう思って、はるかは言った。
「わたしもカメラ好きなんですよ。お昼専門なんですけど」
「どんなカメラお持ちなんですか?」
いずみの言葉をきっかけにしばらくカメラの話で盛り上がり、十分近く過ぎたとき、はるかは言った。
「すみません、あまり挨拶とかできずに、ここまで来ちゃいました」
「こちらこそ。ダンナは見た目がアレなんで、なんか怪しまれがちで」
この十分程度の会話で、高知いずみについて随分と詳しくなった。はるかは言った。
「色彩とかに詳しいんですよね。ちょっと、娘の描く絵のことで気になってて」
ハイツ大正までの道を歩きながら、はるかはスマートフォンに収めた亜衣の絵を、いずみに見せた。目を丸くしたいずみは、言った。
「へー、独特。あーでもこれ」
はるかが続きを待っていると、いずみは自分の直感が正しいことを確認するように、顔をスマートフォンに近づけて、納得したようにうなずいた。
「カバさんの絵は、黄緑色に塗ってみようって書いてありますよね。でも、紫色に塗った。補色ですね。カラーチャートの逆側にある色です。直感でこんな正確に逆に塗れるって、才能だと思います」
ハイツ大正が見えてくるころには、亜衣が描く絵の色使いは、全て元の色の補色だということが分かった。いずみは少し興奮したように目を丸く見開き、言った。
「亜衣ちゃん、すごいもの持ってますよ」
「ちょっと安心しました。ほんと、心配だったんですよね。ありがとうございます」
はるかはそう言うと、ハイツ大正の玄関をくぐった。一〇一号室に入っていこうとする戸川が振り返り、笑顔で会釈をした。
「あら、おかえりなさい」
「こんばんは」
はるかが言い、いずみが頭を下げた。二階への階段を上がっているとき、足音に紛れ込ませるように、いずみが言った。
「町田さんが越してくる前なんですけど。駐車場の車のアラームが鳴りっぱなしになってたんです。それでダンナが戸川さんとこに電話をかけたんですけど、家にいないのかってぐらい、出なかったんですよね」
「お昼はずっと動いてるし、夜はよく寝てるんじゃないですか」
はるかが言うと、いずみは前を向いたまま笑ったが、少し神妙な表情になって言った。
「そうだ、今日親戚が晩御飯食べにくるんです。あと一時間ぐらいなんですけど。ちょっとうるさかったらごめんなさい」
そう言って、いずみは謝罪を予約するように頭を下げた。
「大丈夫ですよ」
はるかはそう言って、二〇一号室のドアを開けた。二〇二号室のドアを開けていずみが中へ入っていくのと同時に、奥の方から『おかえり、親戚どもかかってこいや』という声が返ってきた。壁越しだとめちゃくちゃな夫婦に見えるが、そうでもないようだ。はるかは急いで靴を脱ぐと、台所に立つ充に言った。
「色の謎、解けた。補色だって」
「補色って?」
「逆の色ってこと。ブルーの逆はオレンジだったり、そういうの」
後ろから亜衣がしがみつき、言った。
「ママ、ただいまはー? うがいと手洗いも」
「ただいま、今からやるよー」
はるかは亜衣の体を纏ったまま洗面所に歩いていき、亜衣のチェックを受けながら手洗いうがいを始めた。充は頭にずっと残り続ける『心霊』という言葉を振りほどこうとしたが、うまくいかなかった。料理が焦げかける寸前でフライパンに手をかけたとき、充は頭の中に亜衣が描いた絵をはっきり思い浮かべた。青緑色の壁に、天使。
逆だとしたら、真っ赤な壁に悪魔ということなる。
亜衣が描いたあの細長い空間は、押し入れなのではないか?
地主の息子に嫁いだ、出来の悪い妻。その評価は、夫の失踪後も覆ることはなかったが、義父だけは別だった。息子の何をしでかすか分からない性格を、良く知っていたのだ。しかし、妻が同じように突拍子もないことをあっさりやってのける性格だということは、理解していなかった。誰もが『愛想を尽かされたのだ』と笑う中、女は屋根裏に安置した頭に、時折会いに行っていた。自分の部屋の真上だと発覚するかもしれないから、空いている隣の部屋の真上に置くなど、できるだけ慎重に行動していた。頭自体も、完全に養生していたはずだったが、何日かして袋が破け、屋根裏から押し入れにかけて、頭の中に残っていたとは思えない量の血が流れ出した。自分の部屋であれが起きたら、大変なことになっていただろう。屋根裏が端から端まで繋がっている古い設計は、好都合だった。
そうやってハイツ大正の管理人になったこと自体が、二十年も前のことだ。思い出せば、色々あった。あれだけ綺麗に保管しようと努力した頭も、今は屋根裏の隅に寝転がるただの骨でしかない。そして世代は入れ替わり、今は二〇一と二〇二の両方に、若い夫婦が住んでいる。
戸川は、日付が変わったことに気づいた。ちょうど深夜。押し入れに、絶対に入ってはいけない。特に子供は。中に入って見上げれば、いくら変色して霞んでいるとはいえ、ベニヤの壁に染みこんだままになった血の跡に気づくかもしれない。だから時々はこうやって、余計な騒ぎが起きようとしてないか、確認しておかなければならない。改めて確信したそのとき、そうっと押し入れが開き、町田充が懐中電灯を押し入れの中に向けて振った。確信を持てない、弱々しい手つき。