半睡半醒の微睡
6.叡智
男はついにたどり着いた。世界を支配している厳格な理を打ち破れる域に。われわれが通常、たどり着けるはずのない人類の叡智の頂点に。
幼少期から男は常々、あることを昼夜を分かたずに考え続けていた。朝、通勤電車で激しくもみくちゃにされながら。昼間、仕事で上司に忙しく急き立てられて。夕方、残業の合間にわびしく夕食をとっていて。夜中、眠い目をこすりつつ文献を読み漁りながら。片時も妥協をせず常に最適解を求めて前進し続け、ついにその全人未達の地に達したのだ。
こういう書き方をすると、しょせん頭の中で考えただけだろう、そういうのを机上の空論というんだという物言いも当然発生するだろう。だが彼の場合は単なる机上の論ではない。なぜなら、このことを証明するために、男は何日もかけて実証実験にも取り組んでいたのだ。それも、己━━彼自身の肉体を用いての実験だ。この危険な実験に自らの体を使用することに、男は何のためらいもなかった。そしてこの実験を無事に成功させたことで、男はこの仮説が机上のものではないということを立派に証明してみせたのである。
そろそろ、ごたごた御託を並べるのはもういい。その男が証明した論とは何なんだとこれをお読みの方は思い始めているに違いない。では、それについての話をしていこうと思う。
男は、小さいころから暗闇が大嫌いだった。だって、目をつむったら真っ暗じゃないか。何も見えない真の闇。目の前に恐ろしくて気味の悪い魔物が控えているかもしれないその暗黒の中で、ゆっくり安心して眠れというのは、いささか無理な話ではないだろうか。彼はこうした考えから、寝るときも必ず電気を消さなかった。オレンジ色の光の常夜灯、あれを夜通しつけながら、布団に入ってもしっかりと目を見開き、それでようやく数時間うとうとするという睡眠生活を送り続けてきたのだ。
さらに、彼は眠るということそのものも大嫌いだった。意識を失って、自分が自分でなくなっていくあのこの上もなく不快な感じ。強制的に見させられる夢というものの忌まわしき存在。彼はそのどちらも、愛するに値するとは考えなかった。自分は自分のままであり続けたい。勝手に意識を失ったり、かと思ったら悪夢を見せたりなんて、一体誰の許可を得てこの俺にそんなことをしてくるのだ。こんな考えのせいだろうか。目を覚ましたとき、彼はいつも自己嫌悪に陥っていた、ああ、また俺は眠ってしまったんだ、と。
このように、暗闇や睡眠が病的に嫌いだったこの男は、どうにかして闇を見ずにすむ方法はないか、休まずにすむ方法はないかと、それこそ夜の目も寝ずに考えた。その努力の結果、闇を目に入れず、眠らない方法。すなわち、不眠の能力を手に入れるに到ったのである。
まず男は、最初に考えた。人間はなぜ眠ってしまうのかと。この疑問を解消すべく、彼は眠れない人━━不眠症の人々を、まずつぶさに注視することにした。そして、多くの眠れない人に一致する、ある共通点を導き出したのである。すなわち、彼らには完璧主義や心配性の人が非常に多いということ。昨今、これらの性格は否定的に捉えられることが多いが、言い換えれば、彼らはとてつもなく責任感があるということになる。逆に言うと、眠るこけているやつは責任感がない。その上、どこか世の中をお気楽に捉えているんじゃなかろうか、そう彼は考えたのだ。
そのように考えると、眠りというものの定義というものがちょっと変わってくる。眠るという作業は体を休ませるものでも何でもなく、ただの逃げなのだ。要するに、別の誰かにヒョイッと今現在、起きている問題をパスして放り投げ、自分は意識を失ってさっさとサボるという行動。これが眠りというものの正体なのだ。
ここで当然のように反論が出るだろう。例えば、レポートを書かずに眠った後、起きて他ならぬ自分自身が締切に追われつつレポートを仕上げた場合。この場合は誰にもパスしていないし、自分もサボっていない、そういう反論が当然あるだろう。だが彼は、それは未来の自分へのパスでしかないと断じる。要するに6、7時間後の自分に全てを丸投げしているだけ。そして結局、それはただの甘えでしかない。
また、いわゆる寝落ちなどの事象を挙げるものもいるだろう。人間は疲れがピークに達したら、意識せずとも眠ってしまう。断じてパスではなく、眠りは生理現象という反論だ。これについても彼は言及している。いわゆる寝落ちをするやつは、値落ちをする寸前に起きることを諦めてしまっている。どんなに諦めていなかったと言い張っても、眠ったという結果が全てだ。絶対に諦めない。絶対に眠らないと自身を鼓舞し続ければ、私たち人間は眠らない。
そう。くしくも結論が出てしまったが、この論をふえんさせれば人間は眠らない。睡眠が逃げだというのならば、逃げなければいいのだ。他人にも未来の自分にも問題を丸投げせず、今の自分が逃げずに常に全ての問題を受け止めて踏みとどまれば、人は不眠になれるのだ。
実際に、彼はこのことを実験した。その結果、20日以上彼は睡眠を取らずに生きることに成功したのだ。ただ、うつらうつらして判断が鈍った時期があり、そこは改良の余地があると認めたが。
結論として、物事や問題を先送りしたり他人に丸投げせず、意識を常に高く保ち続けられれば、眠りは跳ねつけることができる。言い換えれば、眠ったやつ、今、眠りこけているやつは全員、例外なく敗北者なのだ!
男はこうメモに記し終えると、大きな仕事をし終えた安心感のせいか、デスクに突っ伏していびきをかき始めた。