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チューリップのアップリケ事件

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 いつもお金のことでおじいちゃん(おばあちゃん)に怒られてはったのである。そしておじいちゃん(おばあちゃん)が死んださかいに、誰もお母ちゃん、おこらはらへんで!なのである。

 母は父のこともいっぱい悪口を言った。色々書くと、あちこちに支障がありそうなので、止める。母親の違う妹弟たちも見るかも知れない。
 ひとつだけ、恐らく決定的な事柄を一つ。
 母が2階の部屋で洗濯物を畳んでいると、突然父が上がってきて母を殴ったそうである。職人さんが言うことを聞かなくてムシャクシャしての事だったらしい。
 「何するんや!」母も黙っている女ではなかった。その時の後遺症で、母は障害者手帳をもらうほど不自由な生活を強いられた。

 僕が自分の人生の中で一番ラッキーだと思うのは、父と母の喧嘩を見なかったことだと思っている。悪口はいっぱい聞かされたが、実感は伴っていない。

 悪口もどうかと思うのだが、僕の父親像は、自分で見聞きした、経験したものである。母親の影響は少なかった。これは有り難かったと思っている。
 ただ母親の言葉を裏付ける様な体験もいっぱいあった。
 ウチには訳ありの兄弟が引き取られていて、3人横並びに座らせられて殴られたことがあった。殴られながら、何で殴られているのか必死で考えていた。
 軍隊式の懲罰が終わって、誰かが給食費を使い込んだ事が発表されるのである。連帯責任、良く殴られた。まあ、悪かったのだが。


「チューリップのアップリケ事件」 その6

 父の一世一代の晴れ舞台、新工場落成式の日を迎えた。
 機械類が何も入っていない工場はだだっ広くて、広げられたゴザの上に沢山の人が座っていた。
 供された酒や肴で、どんちゃん騒ぎが繰り広げられている。立ち上がって踊り出すおじさんも現れて、宴もたけなわ、余興芸が始まった。
 この頃、父の母、おばあさんはもう亡くなっていた。

 僕と平川のお兄さんは、司会者に促されて舞台に上がった。
 数曲歌ったのか、一曲だけだったのか、詳しくは覚えていない。確信犯だったし、犯行時の緊張、興奮状態にあったと思う。
 集まっていたお客さんは、多分岡林信康さんを知らない人たちだったろうし、酔いも回っていたので、最初だけしか聞いてはいなかったろう。特別な反応もなく僕らの出番は終わった。

 舞台から降りてきた僕に、血相を変えた男性が詰め寄ってきた。
「お前は、なんて歌を歌うんだ??」父の一番下の弟だった。
 父は僕らの間に割って入った。そして弟を制して、そのまま向こうに連れて行った。
 全ては終わった。何事もなく、宴会も無事終了した。

 父は、どう思ったのだろう。その後、その話題に触れることはなかった。

 母親思いの息子だった僕は、この歌を歌わないわけにはいかなかった。それは父の晴れの舞台での自己主張、ひねくれ者の抵抗だった。その時、僕にとっての真実は「チューリップのアップリケ」だったのである。

 僕は母親思いの息子だった。でも、母親が好きだった訳ではない。僕は父であるオヤジとは、幾度も衝突した。家業を手伝い始めた二十歳ぐらいから家を出る24歳までは、ほとんどの事柄で意見が対立していた。でも、父親が嫌いだった訳ではない。

 何も言わずに弟を制した父。父は何を思っていたのだろう。ひねくれ者の息子をどう思っていたのだろうか。今はもう知る由もない。
 何も言わなかった親父。そこに僕は父の大きさを思ってしまう。愛情の形を思ってしまうのだった。

 
「チューリップのアップリケ事件」 ふろく

 母は父と喧嘩をすると、50キロほど離れた実家へ帰っていた。
 結婚するまでは、あっちこっちへ行っていた様である。若い時は大阪で働いていたらしいし、高野山に連れて行った時、高野山のお寺に住み込みで働いていたと言い出して、ビックリさせられた事があった。父と出会ったのも、鹿児島市内で働いていた時であった。どうも、結婚すると実家に帰る様になるらしい。

 そんな母が話してくれた、とっておきの家出話を一つ。

 父の元を飛び出した母は、実家には戻らず、その時は北へ向かったらしい。おそらく、熊本あたりまで足を伸ばしたのではないか。
 駅へ降り立ったが、衝動的な家出なので計画性がない。どうしていいか分からずに、母は待合室に座っていた。
 途方に暮れて座っていると、男の人が声を掛けて来た。見ると優しそうな人である。
「奥さん、さっきからずっと座ってるけど、どうしたのこんな所で?」お嬢さんと言ったかも知れない。
「仕事を探しているんなら、紹介してあげようか?私の親戚が商売をしていて、丁度人を探しているんだ」
 その人の言葉を真に受けて、母はついて行ったのだった。

 大きな商家みたいなところへ連れて行かれ、部屋に通された母に、男は「しばらく待つ様に」と言って、姿を消した。
 母がじっとして座っていると、廊下を通りかかった女の人があった。母を見て怪訝そうに聞いてきたという。
 「アンタ、こんな所で何をしているの。」
 「仕事を紹介して貰えるんです」母は答えた。
 「アンタ、ここが何処か知ってるんか。
 女郎屋やぞ。
 はよ、はよ、逃げんか!」
 そのお姉さんの剣幕にビックリして、母はそのまま飛び出して逃げたそうである。ドラマみたいな、本当の話。
 母を逃したそのお姉さんは、その後どうなったろうか。映画なら、死ぬ程折檻をされているはずである。
 その人が居なかったら、きっと僕は生まれていなかったろうと思います。

 この体験が実になったのかどうかは分からない。その後も家出はあったろうし、千葉県や天理市など、母の放浪は続いた。

 僕は母親を見る時、三つの側面から見ている。母と、女、そして妻としてである。妻としても、女としても、僕には必要のないものだ。母親としてだけ見れば、感謝するだけの存在である。
 父親を見るときも同じ。夫としても、父親としても見ないようにしている。考えると文句の一つも出てくるだろう。だから、男として、人間としてどう生きたいか、どう生きているか?それだけで充分だった。

 母はその後再婚をした。父親と袂を分かって家を出た僕は、縁を切るつもりで24歳の時に母の姓を名乗るようになった。角さん、誕生である。
 嫁さんが出来て、帰省の折には父親の元を訪ねた。何回かの会話だが、嫁さんは言う。
 「村田のお父さんが、貴方のことを一番理解してると思う」と。彼女に言わせると、「お母さんはよく分からなかったんじゃないかな。」という事らしい。
おわり