チューリップのアップリケ事件
「チューリップのアップリケ事件」 その1
平川さんのお兄さんは、東京の大学に通っている大学生だった。お兄さんの父親は親父の同級生で、我が家の石材店を手伝ってくれていた。
お兄さんは大きなギターを抱えて我が家へやって来た。長く伸ばした髪と伸びた髭はまるでイエス・キリストのよう!整った顔立ちも一層キリスト感を醸し出していた。
彼は東京で音楽活動もやっていて、チューリップの前座もやったことがあると話してくれた。
芸事好きの親父は、お兄さんの伴奏で僕に歌を歌わせる事を思い立ったのだ。
当時、我が家のあった大きな市営墓地が移転することになり、墓地内でほぼ唯一といっていい父の店は、墓地移転の大部分を請け負っていた。車も10台くらいはあったし、働いている人も50人以上はいたのではないか?兎に角一世一代の大仕事だった。
墓地の移転に伴い、我が家の居宅と工場も移転して、新築の工場が建つことになっていた。
その工場の落成式として、大勢の関係者を招いての宴会が計画されており、その席で息子にも歌を歌わせようと考えたのだった。
「チューリップのアップリケ事件」 その2
僕とお兄さんは自宅の二階で稽古を始めた。
お兄さんは小学校6年生の僕にいろんな話をしてくれた。
東京、大学、フォークソング!皆、僕の知らない世界だった。
今から思えばだが、イエス・キリスト似のお兄さんは、実は岡林信康さんを意識していたのではないかと思う。音楽的な影響を受け、岡林信康を信奉していたように思う。ハンサムな人だったので、本当によく似ていた。後々僕は岡林信康さんを知るのだが、僕の中では瓜ふたつと言っていいほど、よく似ていた。
お兄さんは、岡林信康さんの歌を僕に聞かせてくれた。子供だった僕はその全てに圧倒されて、ポカンと口を開けて聞いていたのではないか?そして次から次にねだったのではないか?
初めて聞くフォークソング、岡林信康さんやその他の歌の数々。少年が初めて知った、大人の世界だった。
そんな中で、僕はひとつの歌に心を奪われてしまった。お兄さんの歌ってくれる歌を聴きながら眺めていた歌詞は、当時の僕にとって衝撃的だった。
その曲は「チューリップのアップリケ」。小さな女の子が、別れて住むお母さんに、チューリップのアップリケのついたスカートを買ってほしいと、切に訴えた歌だった。今、どれほどの人が知っているだろう、しかし、昭和の名曲である。
「チューリップのアップリケ事件」 その3
「チューリップのアップリケ」
うちがなんぼ早よ 起きても
お父ちゃんはもう 靴トントンたたいてはる
あんまりうちのこと かもてくれはらへん
うちのお母ちゃん 何処に行ってしもたのん
うちの服を 早よう持ってきてか
前は学校へ そっと逢いにきてくれたのに
もうおじいちゃんが 死んださかいに
誰もお母ちゃん 怒らはらへんで
早よう帰って来てか
スカートがほしいさかいに
チューリップのアップリケ
ついたスカート持って来て
お父ちゃんも時々 買うてくれはるけど
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちのお父ちゃん 暗いうちから遅うまで
毎日靴を トントンたたいてはる
あんな一生懸命 働いてはるのに
なんでうちの家 いつも金がないんやろ
みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや
そやで お母ちゃん 家を出て行かはった
おじいちゃんに お金の事で
いつも大きな声で 怒られてはったもん
みんな貧乏のせいや
お母ちゃん ちっとも悪うない
チューリップのアップリケ
ついたスカート持って来て
お父ちゃんも時々 買うてくれはるけど
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
「岡林信康 作詞作曲 岡林信康 歌 より引用」
僕には歌に関するトラウマがある。それは「人生の並木路」という歌で、パチンコ屋で流れてきても、涙が止まらなくなる。
歌の情景が、妹の手を引いて暗い夜道を母の勤める飲み屋さんへ通った情景を思い出させるからである。その時の寂しさや不安、そして孤独は、多分死ぬまで忘れることはないだろうと思う。
しかしこの「チューリップのアップリケ」は違う。僕はこんな体験はしていない。両親は離婚していて、母とは離れて暮らすこともあったが、歌詞の中のような体験をした訳ではなかった。
ならばなぜこの曲が心に刺さったのか>
それは母からの影響だった。
「チューリップのアップリケ事件」 その4
父と母が離婚したことについて、父は「誰も悪くないんだ」としか言わなかった。聞いたことはなかったが、何かのタイミングでそう言われたことがあった。しかし、母親は違った。
その結婚生活や、父の振舞い、そして父の新しい家族について、多分の悪意をもって僕に語った。口汚く罵ることもあった。恐らく父たちを悪く言うことで自分を正当化したかったのだろうし、僕を味方に引き込みたかったに違いない。
父と母の結婚生活は、とても貧しかったようである。というよりも、父はお金の苦労と無縁で生きることはできなかった。その青年期を除いて、ずっーと貧乏だったのではないか。様々な縁で墓石屋を始めたが、凡そ商売のできる人ではなかった。
父には弟が二人いたが、すぐ下の弟は同じ墓石屋をしていて、反社のかたや現職の検事を騙すような商売上手?だった。その弟の尻拭いのために、父はその人生の大半を使った。
「お前らは不幸せだ。俺たちの青春時代は幸せだった」朝鮮での鉄道職員時代は、父にとっての宝物だったに違いない。
父の母親、僕の祖母は目を細めてこう言った。
「あんたのお父さんが県庁、その下の弟が市役所、一番下の弟が国鉄に行っていた頃、世間の人からうらやましがられたもんだよ。」
このお祖母さん、この人からいじめられたと、母はよく言うのだった。
「もうおじいちゃんが死んださかいに、誰もおかあちゃん怒らはらへんで」
そうなのだ、このおばあちゃんのくだりと、貧乏を重ねていた話が、僕にとっての「チューリップのアップリケ」だった。
「チューリップのアップリケ事件」 その5
僕はこのばあ様を好きにはなれなかった。笑った顔を見たこともなかった。
こたつに座って店番をしていたのだが、布団の中には決して足を入れず、しかし、最奥まで行っているにもかかわらず、こたつには入っていないと言い張った。
母は言った。豆腐半丁分のお金を持たされて、毎日買い物に行かされた。とか、お箸の上げ下ろし、布団の上げ下げ、その他行儀作法に滅法うるさかった。
勿論お金にも細かく、住んでいた家も、少額のお金を長い期間払って手に入れたのだった。
早くに連れ合いを無くして、女手一つで4人の子、特に3人の男子を無事高校まで出して公務員にした明治生まれの女の根性に、ヤワな母が対応出来るはずもなく、何度かの家出ののち、母は実家に帰った。
父はばあ様の苦労を見ていたので、親に反抗することのない、家族思い、家思いの親孝行な息子だった。
ある時などばあ様の命令で、跡取りの僕の強奪を企てたこともあった??
平川さんのお兄さんは、東京の大学に通っている大学生だった。お兄さんの父親は親父の同級生で、我が家の石材店を手伝ってくれていた。
お兄さんは大きなギターを抱えて我が家へやって来た。長く伸ばした髪と伸びた髭はまるでイエス・キリストのよう!整った顔立ちも一層キリスト感を醸し出していた。
彼は東京で音楽活動もやっていて、チューリップの前座もやったことがあると話してくれた。
芸事好きの親父は、お兄さんの伴奏で僕に歌を歌わせる事を思い立ったのだ。
当時、我が家のあった大きな市営墓地が移転することになり、墓地内でほぼ唯一といっていい父の店は、墓地移転の大部分を請け負っていた。車も10台くらいはあったし、働いている人も50人以上はいたのではないか?兎に角一世一代の大仕事だった。
墓地の移転に伴い、我が家の居宅と工場も移転して、新築の工場が建つことになっていた。
その工場の落成式として、大勢の関係者を招いての宴会が計画されており、その席で息子にも歌を歌わせようと考えたのだった。
「チューリップのアップリケ事件」 その2
僕とお兄さんは自宅の二階で稽古を始めた。
お兄さんは小学校6年生の僕にいろんな話をしてくれた。
東京、大学、フォークソング!皆、僕の知らない世界だった。
今から思えばだが、イエス・キリスト似のお兄さんは、実は岡林信康さんを意識していたのではないかと思う。音楽的な影響を受け、岡林信康を信奉していたように思う。ハンサムな人だったので、本当によく似ていた。後々僕は岡林信康さんを知るのだが、僕の中では瓜ふたつと言っていいほど、よく似ていた。
お兄さんは、岡林信康さんの歌を僕に聞かせてくれた。子供だった僕はその全てに圧倒されて、ポカンと口を開けて聞いていたのではないか?そして次から次にねだったのではないか?
初めて聞くフォークソング、岡林信康さんやその他の歌の数々。少年が初めて知った、大人の世界だった。
そんな中で、僕はひとつの歌に心を奪われてしまった。お兄さんの歌ってくれる歌を聴きながら眺めていた歌詞は、当時の僕にとって衝撃的だった。
その曲は「チューリップのアップリケ」。小さな女の子が、別れて住むお母さんに、チューリップのアップリケのついたスカートを買ってほしいと、切に訴えた歌だった。今、どれほどの人が知っているだろう、しかし、昭和の名曲である。
「チューリップのアップリケ事件」 その3
「チューリップのアップリケ」
うちがなんぼ早よ 起きても
お父ちゃんはもう 靴トントンたたいてはる
あんまりうちのこと かもてくれはらへん
うちのお母ちゃん 何処に行ってしもたのん
うちの服を 早よう持ってきてか
前は学校へ そっと逢いにきてくれたのに
もうおじいちゃんが 死んださかいに
誰もお母ちゃん 怒らはらへんで
早よう帰って来てか
スカートがほしいさかいに
チューリップのアップリケ
ついたスカート持って来て
お父ちゃんも時々 買うてくれはるけど
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちのお父ちゃん 暗いうちから遅うまで
毎日靴を トントンたたいてはる
あんな一生懸命 働いてはるのに
なんでうちの家 いつも金がないんやろ
みんな貧乏が みんな貧乏が悪いんや
そやで お母ちゃん 家を出て行かはった
おじいちゃんに お金の事で
いつも大きな声で 怒られてはったもん
みんな貧乏のせいや
お母ちゃん ちっとも悪うない
チューリップのアップリケ
ついたスカート持って来て
お父ちゃんも時々 買うてくれはるけど
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
うちやっぱり お母ちゃんに買うてほし
「岡林信康 作詞作曲 岡林信康 歌 より引用」
僕には歌に関するトラウマがある。それは「人生の並木路」という歌で、パチンコ屋で流れてきても、涙が止まらなくなる。
歌の情景が、妹の手を引いて暗い夜道を母の勤める飲み屋さんへ通った情景を思い出させるからである。その時の寂しさや不安、そして孤独は、多分死ぬまで忘れることはないだろうと思う。
しかしこの「チューリップのアップリケ」は違う。僕はこんな体験はしていない。両親は離婚していて、母とは離れて暮らすこともあったが、歌詞の中のような体験をした訳ではなかった。
ならばなぜこの曲が心に刺さったのか>
それは母からの影響だった。
「チューリップのアップリケ事件」 その4
父と母が離婚したことについて、父は「誰も悪くないんだ」としか言わなかった。聞いたことはなかったが、何かのタイミングでそう言われたことがあった。しかし、母親は違った。
その結婚生活や、父の振舞い、そして父の新しい家族について、多分の悪意をもって僕に語った。口汚く罵ることもあった。恐らく父たちを悪く言うことで自分を正当化したかったのだろうし、僕を味方に引き込みたかったに違いない。
父と母の結婚生活は、とても貧しかったようである。というよりも、父はお金の苦労と無縁で生きることはできなかった。その青年期を除いて、ずっーと貧乏だったのではないか。様々な縁で墓石屋を始めたが、凡そ商売のできる人ではなかった。
父には弟が二人いたが、すぐ下の弟は同じ墓石屋をしていて、反社のかたや現職の検事を騙すような商売上手?だった。その弟の尻拭いのために、父はその人生の大半を使った。
「お前らは不幸せだ。俺たちの青春時代は幸せだった」朝鮮での鉄道職員時代は、父にとっての宝物だったに違いない。
父の母親、僕の祖母は目を細めてこう言った。
「あんたのお父さんが県庁、その下の弟が市役所、一番下の弟が国鉄に行っていた頃、世間の人からうらやましがられたもんだよ。」
このお祖母さん、この人からいじめられたと、母はよく言うのだった。
「もうおじいちゃんが死んださかいに、誰もおかあちゃん怒らはらへんで」
そうなのだ、このおばあちゃんのくだりと、貧乏を重ねていた話が、僕にとっての「チューリップのアップリケ」だった。
「チューリップのアップリケ事件」 その5
僕はこのばあ様を好きにはなれなかった。笑った顔を見たこともなかった。
こたつに座って店番をしていたのだが、布団の中には決して足を入れず、しかし、最奥まで行っているにもかかわらず、こたつには入っていないと言い張った。
母は言った。豆腐半丁分のお金を持たされて、毎日買い物に行かされた。とか、お箸の上げ下ろし、布団の上げ下げ、その他行儀作法に滅法うるさかった。
勿論お金にも細かく、住んでいた家も、少額のお金を長い期間払って手に入れたのだった。
早くに連れ合いを無くして、女手一つで4人の子、特に3人の男子を無事高校まで出して公務員にした明治生まれの女の根性に、ヤワな母が対応出来るはずもなく、何度かの家出ののち、母は実家に帰った。
父はばあ様の苦労を見ていたので、親に反抗することのない、家族思い、家思いの親孝行な息子だった。
ある時などばあ様の命令で、跡取りの僕の強奪を企てたこともあった??
作品名:チューリップのアップリケ事件 作家名:こあみ