空と海の道の上より Ⅷ
五月二十六日(金)曇りのち晴れ
出発の用意は出来たが、朝食まで時間があるので体操をする。足や肩がすごく痛い。
リュックの中に、昨日前神寺の近くで頂いた甘栗があるのをすっかり忘れていた。お腹が空いていたので少し食べる。地図をベッドの上に広げると、折るところがボロボロになっている。
七時、バイキングの朝食。雨がまだ少し降っていたが、七時半、出る時には上がる。
国領大橋を渡り、すぐ旧道へ。旧道がずっと続いているのかと道を尋ねた方に、五百円とチョコレートのお接待を頂く。
八時二十分、国道沿いで休憩。少し送り返して荷物が軽くなった筈なのに、リュックの重みが肩に食込み、朝からしんどい。気温が低いのか歩いていると丁度良いが、立ち止まっていると寒いくらい。
雲が東に走り、フロントの方も「今日はお天気になりますよ」と言っておられたので、どんよりしているが雨の心配なし。
八時四十五分、土居町へ、関の原を過ぎ旧道へ。前方に海が見える。歩きながら三島のおばあちゃんやお祖父ちゃんのことを思い、今もいてくれたらこの道を歩くのがとても嬉しいのに、と思うと涙が出てくる。
十時二十分、番外延命寺着。お参りを済ませ出ようとリュックを背負いかけると、自転車でお参りの男の人に声をかけられる。「このお寺の由来と松のことを話したいが、聞いてくれますか」と言われ、リュックを降ろし松のところに。
今は枯れてしまったが、この松はものすごく大きく四方八方に伸び、所々に今も石が立っているが、それがみな松の枝の支えだったこと。その石はみなが寄付されたこと。小さい時ここでよく遊んだけれど、何人もで手をつながなければ届かない程幹が太かったこと。
お寺の由来は、昔この松のそばでいざりが一生懸命お祈りをしていて、一人のお遍路さんに千枚通しの護符を頂き、それでいざりが治った。
そのいざりに護符を与えたのがお大師様だったとのこと。それで今でもこのお寺に千枚通しのお札があり、大勢の人がお参りに来ることなど話してくれる。この方はお寺の総代さんだそうです。
松は見ましたがお話を伺って始めてそんな大きな松だったのかと、残念ながら今は枯れてありませんが、あちこち立っている石の支えで当時の姿が偲ばれます。話を聞かせて頂き、十一時出発。
すぐ前の店で三福寺さん(母の里の菩提寺)にお供えするのし袋を買う。歩いて一人でお参りしていると聞いてびっくりされ、お接待にと飴をくださる。ここはちょっとした商店街。
十一時四十分、うどん屋さんのところで三角寺に電話して尋ねると、今はもう宿坊をしていないとのこと。椿堂までは今日の身体の調子では無理なので、三島に泊まろうと思う。
手に飴を持っていたのと、三福寺さんのことを考えていたので電話ボックスに杖を忘れ少し歩きかけ、すぐ気が付いて戻る。ちょうど昼時で、三福寺さんもすぐそこ。うどん屋さんで食べていけということかと思いお店へ。おいしいうどんでした。
十二時半、三福寺さん着。きれいなお寺です。今、本堂の建て替えをしています。座敷に上げて頂き、ご本尊にお参りする。お茶やお菓子を頂き、泊まるところの心配もして下さる。上分に旅館を見つけてくれ、もし泊まれなかったら迎えに行くから、家に泊まっていったらいいと言って下さる。
三十分ほどお邪魔して出発。旧道を歩くと右に高速道路が見える。一時半、豊岡町長田、私はちっとも知らないのに、懐かしさを覚え不思議な気がします。
昼からは晴れてきたので海がきれいに見え、ずっと昔、お祖父ちゃんのところに吉宏さんと遊びに来て、貝拾いをしたことを思い出し、次から次にその時のことが思い出される。
一時四十五分、潮見先生(母の小学校の恩師)の家の前。昔はもっと川が大きくて、今見るのとは全然感じが違い、川がなかったら分からなかった。寄らせて頂くつもりでしたが、三福寺さんで先生が亡くなられたことを聞き、寄らずに通り過ごす。
照ちゃんに書いてもらった地図を見て、五分程でお墓へ。何も持っていないので、お線香だけあげ、お経を唱える。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんがお四国参りをしてくれていたお蔭で、私もこのようにお参りできるような気がして、感謝してお墓の前に。涙が出て止まりません。
町の人にお薬師様を尋ね薬師堂へ。横から中に入らせて頂き、預かってきた大手山さんと明代さんのお供えを供える。
中はとてもきれいで、ここは藤田さんたちが泊まりたくなるようなところです。母の里ですが、今はもう誰も訪ねるところがなく、とても寂しい気がします。
二時五十分、国道に出て喫茶店で少し休む。ずっと旧国道を歩くので車が少なくのんびり歩ける。
三時半、大高製紙工場の前、旧道を挟んで宮崎の表札。ここがみさを伯母ちゃん(母方の伯母)の里かなと思う。この辺は製紙工場ばかりです。
今日はとてもしんどく、ダウン。三島に泊まろうと思う。
四時、三角寺に上る遍路道マークがあり、近くに宿を取ろうと思い、教えてもらった宿に行く。玄関に入り声をかけるが誰も出ない。見ると長期滞在の人の宿のようで乱雑。躊躇し、また駅前まで歩く。
四時半、駅前にきれいなホテルがあり、値段を聞くと五千円。ちょっと勿体無い気もするが、とても疲れているのでここに決める。八階の海が見える見晴らしの良い部屋。お風呂も広く、足を伸ばせるので助かる。
ホテルのレストランより何か違うものが食べたくて町へ。なかなか食べるところが見つからず、やっと一軒見つける。
食事をしながらお店の人と話をするうち、ふみ子姉さん(母の姪)の話になり、子供さんが同級生でよく知っておられ、すぐ近くとのこと。ふと訪ねてみようかなと思いお店を出て八時前に伺う。
ちょうど今夜はクッキングスクールが休みで、二時間ほどお邪魔する。ラーメンをご馳走になりホテルまで送ってくれる。
「全然知らないといっても、やっぱり従兄弟と思うと懐かしい気がする。」と言われ、私もそんな気がしました。訪ねることなど滅多にないので良かったと思います。
大阪にも時々行かれるとのこと。地図を出して伯母ちゃんところはどのあたりと聞かれるので、天六と言うと、行岡病院のすぐ隣の料理学校によく行くとのこと。すぐ傍なのに全然知らなかったとのことに、ぜひ訪ねるよう勧めました。九州の伯父ちゃんと伯母ちゃんも、この春タクシーでお四国参りをされたそうです。
夜、葉書や手紙をあちこちに書こうと思っていたのですが、予定が変わってしまい、朝、急いで書いています。三島の駅前も少し歩いてみましたが、憶えていた感じと全然違います。
三島のおばあちゃんの住んでいたすぐ近くのホテルに泊まり、お祖父ちゃんや三島のおばあちゃんのことを思い出し少し寂しかったのですが、ふみ子姉さんを訪ね楽しい気分になりました。
昨日パンを買っておいたので、食べて準備が出来たらすぐ出ようと思っています。
今日は朝から良い天気で、暑くなりそうです。身体が疲れているのでもう無理をせず、ゆっくりお参りを続けるつもりです。最後にへこたれることのないよう急がず行きたいと思っています。
五月二十七日 午前六時
三島駅前三島第一ホテルにて
出発の用意は出来たが、朝食まで時間があるので体操をする。足や肩がすごく痛い。
リュックの中に、昨日前神寺の近くで頂いた甘栗があるのをすっかり忘れていた。お腹が空いていたので少し食べる。地図をベッドの上に広げると、折るところがボロボロになっている。
七時、バイキングの朝食。雨がまだ少し降っていたが、七時半、出る時には上がる。
国領大橋を渡り、すぐ旧道へ。旧道がずっと続いているのかと道を尋ねた方に、五百円とチョコレートのお接待を頂く。
八時二十分、国道沿いで休憩。少し送り返して荷物が軽くなった筈なのに、リュックの重みが肩に食込み、朝からしんどい。気温が低いのか歩いていると丁度良いが、立ち止まっていると寒いくらい。
雲が東に走り、フロントの方も「今日はお天気になりますよ」と言っておられたので、どんよりしているが雨の心配なし。
八時四十五分、土居町へ、関の原を過ぎ旧道へ。前方に海が見える。歩きながら三島のおばあちゃんやお祖父ちゃんのことを思い、今もいてくれたらこの道を歩くのがとても嬉しいのに、と思うと涙が出てくる。
十時二十分、番外延命寺着。お参りを済ませ出ようとリュックを背負いかけると、自転車でお参りの男の人に声をかけられる。「このお寺の由来と松のことを話したいが、聞いてくれますか」と言われ、リュックを降ろし松のところに。
今は枯れてしまったが、この松はものすごく大きく四方八方に伸び、所々に今も石が立っているが、それがみな松の枝の支えだったこと。その石はみなが寄付されたこと。小さい時ここでよく遊んだけれど、何人もで手をつながなければ届かない程幹が太かったこと。
お寺の由来は、昔この松のそばでいざりが一生懸命お祈りをしていて、一人のお遍路さんに千枚通しの護符を頂き、それでいざりが治った。
そのいざりに護符を与えたのがお大師様だったとのこと。それで今でもこのお寺に千枚通しのお札があり、大勢の人がお参りに来ることなど話してくれる。この方はお寺の総代さんだそうです。
松は見ましたがお話を伺って始めてそんな大きな松だったのかと、残念ながら今は枯れてありませんが、あちこち立っている石の支えで当時の姿が偲ばれます。話を聞かせて頂き、十一時出発。
すぐ前の店で三福寺さん(母の里の菩提寺)にお供えするのし袋を買う。歩いて一人でお参りしていると聞いてびっくりされ、お接待にと飴をくださる。ここはちょっとした商店街。
十一時四十分、うどん屋さんのところで三角寺に電話して尋ねると、今はもう宿坊をしていないとのこと。椿堂までは今日の身体の調子では無理なので、三島に泊まろうと思う。
手に飴を持っていたのと、三福寺さんのことを考えていたので電話ボックスに杖を忘れ少し歩きかけ、すぐ気が付いて戻る。ちょうど昼時で、三福寺さんもすぐそこ。うどん屋さんで食べていけということかと思いお店へ。おいしいうどんでした。
十二時半、三福寺さん着。きれいなお寺です。今、本堂の建て替えをしています。座敷に上げて頂き、ご本尊にお参りする。お茶やお菓子を頂き、泊まるところの心配もして下さる。上分に旅館を見つけてくれ、もし泊まれなかったら迎えに行くから、家に泊まっていったらいいと言って下さる。
三十分ほどお邪魔して出発。旧道を歩くと右に高速道路が見える。一時半、豊岡町長田、私はちっとも知らないのに、懐かしさを覚え不思議な気がします。
昼からは晴れてきたので海がきれいに見え、ずっと昔、お祖父ちゃんのところに吉宏さんと遊びに来て、貝拾いをしたことを思い出し、次から次にその時のことが思い出される。
一時四十五分、潮見先生(母の小学校の恩師)の家の前。昔はもっと川が大きくて、今見るのとは全然感じが違い、川がなかったら分からなかった。寄らせて頂くつもりでしたが、三福寺さんで先生が亡くなられたことを聞き、寄らずに通り過ごす。
照ちゃんに書いてもらった地図を見て、五分程でお墓へ。何も持っていないので、お線香だけあげ、お経を唱える。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんがお四国参りをしてくれていたお蔭で、私もこのようにお参りできるような気がして、感謝してお墓の前に。涙が出て止まりません。
町の人にお薬師様を尋ね薬師堂へ。横から中に入らせて頂き、預かってきた大手山さんと明代さんのお供えを供える。
中はとてもきれいで、ここは藤田さんたちが泊まりたくなるようなところです。母の里ですが、今はもう誰も訪ねるところがなく、とても寂しい気がします。
二時五十分、国道に出て喫茶店で少し休む。ずっと旧国道を歩くので車が少なくのんびり歩ける。
三時半、大高製紙工場の前、旧道を挟んで宮崎の表札。ここがみさを伯母ちゃん(母方の伯母)の里かなと思う。この辺は製紙工場ばかりです。
今日はとてもしんどく、ダウン。三島に泊まろうと思う。
四時、三角寺に上る遍路道マークがあり、近くに宿を取ろうと思い、教えてもらった宿に行く。玄関に入り声をかけるが誰も出ない。見ると長期滞在の人の宿のようで乱雑。躊躇し、また駅前まで歩く。
四時半、駅前にきれいなホテルがあり、値段を聞くと五千円。ちょっと勿体無い気もするが、とても疲れているのでここに決める。八階の海が見える見晴らしの良い部屋。お風呂も広く、足を伸ばせるので助かる。
ホテルのレストランより何か違うものが食べたくて町へ。なかなか食べるところが見つからず、やっと一軒見つける。
食事をしながらお店の人と話をするうち、ふみ子姉さん(母の姪)の話になり、子供さんが同級生でよく知っておられ、すぐ近くとのこと。ふと訪ねてみようかなと思いお店を出て八時前に伺う。
ちょうど今夜はクッキングスクールが休みで、二時間ほどお邪魔する。ラーメンをご馳走になりホテルまで送ってくれる。
「全然知らないといっても、やっぱり従兄弟と思うと懐かしい気がする。」と言われ、私もそんな気がしました。訪ねることなど滅多にないので良かったと思います。
大阪にも時々行かれるとのこと。地図を出して伯母ちゃんところはどのあたりと聞かれるので、天六と言うと、行岡病院のすぐ隣の料理学校によく行くとのこと。すぐ傍なのに全然知らなかったとのことに、ぜひ訪ねるよう勧めました。九州の伯父ちゃんと伯母ちゃんも、この春タクシーでお四国参りをされたそうです。
夜、葉書や手紙をあちこちに書こうと思っていたのですが、予定が変わってしまい、朝、急いで書いています。三島の駅前も少し歩いてみましたが、憶えていた感じと全然違います。
三島のおばあちゃんの住んでいたすぐ近くのホテルに泊まり、お祖父ちゃんや三島のおばあちゃんのことを思い出し少し寂しかったのですが、ふみ子姉さんを訪ね楽しい気分になりました。
昨日パンを買っておいたので、食べて準備が出来たらすぐ出ようと思っています。
今日は朝から良い天気で、暑くなりそうです。身体が疲れているのでもう無理をせず、ゆっくりお参りを続けるつもりです。最後にへこたれることのないよう急がず行きたいと思っています。
五月二十七日 午前六時
三島駅前三島第一ホテルにて
作品名:空と海の道の上より Ⅷ 作家名:こあみ