上野ひと夜語り
部屋の壁はすべて棚になっていて、夥しい数の絵の具やパレット、薬品瓶に大小様々の筆が乱雑に転がっていた。
西日が差し込む窓に向かって大きなソファーが置かれていて、部屋の中央には絵の具で汚れた大きなテーブル。
そして絵の具とテレピン油の香り・・いや匂いというべきか。
「すごいですね・・」
「なにが?」
「僕、高校時代は美術部で少し油もやりましたけど・・」
「本物の画家のアトリエって、初めてです」
「そう・・」
「何かお飲みになる?」
「いえ、もう充分です」
「じゃ・・」
彼女はそう言うと、僕の目を見つめながら服を脱ぎだした。
「私も飲み物はもうたくさん・・」
「あなたをもっと感じたいわ」
金縛りにあった様に僕は動けなかった。
とうとう上下の下着も脱いで全裸になった彼女の白い肌と、差し込む西日に金色に輝く産毛・・僕は完全に言葉を失っていた。
全裸の彼女は、栗色の髪を両手でかき上げて下ろし黙って僕を見つめた。
そして、その瞳に射すくめられた様に身動きできない僕に言った。
「あなたも軽くおなりなさい」
「・・はい」
僕のポロシャツのボタンを外す指が、小刻みに震えた。
「どうなさったの?」
「私が、怖い?」
「いえ、そういう訳じゃ・・」
やっとの思いでボタンを外すと、彼女が一気にポロシャツを脱がせた。
そして続けてジーンズのベルトとスナップを外し、ジッパーを引き下ろした。
トランクス一枚になった僕に微笑みながら言った。
「最後のソレはご自分でね」
僕は何も言わずに彼女を抱きしめてキスをした。
キスしながら撫でまわした背中とくびれた腰のライン・・僕の中のブレーキがスッ飛んだ瞬間だった。
僕はトランクスを脱いで、彼女を抱きかかえてソファーに倒れこんだ。
それから僕らは、ステンドグラスがただの真っ黒な窓になるまで貪りあった。
愛し合った後も、暫く抱き合ったままでお互いの荒い呼吸と胸の鼓動を感じていた。
汗が冷えてきたのか「寒いわ」と彼女は立ち上がって、テーブルの燭台の蝋燭に火を着けた。
アトリエが柔らかくて優しい、温かい光に満ちた。
そして古びた毛布を持ってきて、二人でくるまった。
「・・素敵だったわ」
「うん、素敵だった」
彼女は僕の脇腹に抱き着いて、汗を舐めた。
「あなたの汗、おいしい」
「しょっぱいでしょ?」
「ううん、あなたの味がするわ」
蝋燭の光が、風も無いのに少しだけ揺らめいた。
僕らは、毛布にくるまって蝋燭の灯りを無言で眺めた。
僕は思い切って、気になっていた事を聞いた。
「あの・・」
「なに?」
「ご主人は?」
「ヨーロッパよ」
「絵を描きに・・ですか?」
「多分」
「多分?」
そう、多分ね・・と彼女は言って、ソファーから立ち上がった。
「どうして?」
「心配かしら?」
「だって・・もしもいきなり帰ってきてこんな現場見られたら・・」
「見られたら、困る?」
「そりゃ・・困るんじゃないですか?」
「そう?私は困らないわ」
そう言って振り返った彼女の顔は、蝋燭の光の影になって表情は分からなかった。
「そういえば、あなた・・」
「お名前はなんておっしゃるの?」
確かに、今日の午後初めて会って、手を繋いで一緒に絵を観てキスをして・・こうして愛し合ったのに僕らはまだお互いの名前も知らなかった。
改めてそう問いかけられて、僕は思わず笑ってしまった。
「あら、あなたの笑う顔を初めて見たわ」
そう言いながら彼女も笑った。
「確かに、名乗ってませんでしたね」
「そうね、面白いわ」
そう言って彼女は、毛布ごと僕を抱きしめて言った。
「いいわ、このままで」
「お互いに名無しでいましょう」
「名前なんて、意味ないもの」
彼女は、僕の前にしゃがみこんで言った。
「あなたをもっと感じたいの・・」
そして彼女は口で僕自身を頬張り、愛撫しだした。
ソファーに凭れて僕は、静かに上下する彼女の頭越しに蝋燭の光を見つめながら、押し寄せる波に身を委ねた。
その夜、日付が変わった事にも気付かない位・・僕らは何度も愛し合った。
そして蝋燭の光が急に暗くなって、最後は消え入る様に燃え尽きた。
シーンと音がしそうな暗闇の中で彼女が言った。
「また、会えるかしら」
「うん、会いたい」
「会いに来てくださる?」
「もちろん」
嬉しい・・と僕をギュッと抱きしめた後、彼女は立ち上がってアトリエから出て行った。
取り残された僕は、暗闇の中、苦労しながら服を着て彼女を待った。
程なく、お盆に銀のコップを二つ載せて彼女が戻ってきた。
そして別の蝋燭に火を着けた。
アトリエがまた、優しい光で生き返った。
「あら、ズルいわ」
「え、なにが?」
自分だけ服を着て・・と笑いながら彼女はお盆をテーブルに置いた。
彼女は全裸のままだった。
「ごめん、脱ごうか?」
「いいわ、そのままで」
「でも私はこのまま・・」
微笑みながら渡してくれた思い銀のコップには、赤ワインが入っていた。
「乾杯、名無しさんに・・」
「うん、乾杯」
コップがチン・・と小さく鳴って、僕らはワインを飲んだ。
美味しかった。
「また・・」
「会いたくなったら来てくださる?」
「うん、必ず」
「私、あなたを愛しているわ」
帰り際に渡された紙切れには、電話番号だけが書かれていた。
僕は紙切れをジーンズの尻のポッケにしまい、人気の途絶えた上野公園を横切り広小路からタクシーで帰宅した。
数日後、彼女に会いたくて紙切れに書かれた番号にかけると、聞こえてきたのは「おかけになった電話番号は・・」の機械的な声。
僕はたまらず、その足で彼女の家を訪ねた。
あの時と同じ黒塀、しかし門は固く閉ざされていて、ふと横を見ると・・
「貸家 連絡先〇〇不動産」の張り紙。
こうして彼女は、僕の前から姿を消した。
それ以来、僕は上野のあの美術館には行っていない。