上野ひと夜語り
先日の事、ふと駅で見かけた印象派の絵画展のポスター・・それを見た瞬間に懐かしい不思議な思い出がフラッシュバックした。
その可憐とも見方によっては妖艶ともとれる微笑みを浮かべたモデルに、そう、彼女は似ていた。
それは今から30年程前、世の中がやっと新元号に慣れ始めた頃の事だった。
僕は30代前半で仕事も軌道に乗り、少しずつではあったが自由な時間を持てる様になっていた。
ある秋の日、僕はこれと言った目的も無く上野を訪れ、美術館に入った。
平日の空いている館内の、静かな時間を味わいながらのんびりと観て回っていた。
そして、ある一枚の若い作家の絵に釘付けになり、しばしそこを動けなくなった。
それは風景画だったのだが、絵の中の空や木々に何かしら観る者を離さない気迫というか情念のようなものが宿っている様に感じられて・・。
圧倒されていたのかもしれない。
ふと気配を感じて横を見ると、唾広の帽子を目深に被った小柄な女性が同じ絵を凝視していた。
この人も何か感じているのだなと思い、また絵を観た。
暫くはそのままだったが、その女性が口を開いた。
「なんて悲しい絵・・」
「え?」
意外な言葉に驚いた僕は、思わず女性を見た。
彼女は静かに涙を流していた。
絵を観ながら泣いている彼女の横顔を僕は見つめた。
頬を一筋の涙がまた、転がり落ちた。
思わず僕は話しかけた。
「悲しい・・ですか?この絵は」
「ええ、嗚咽が聞こえてくるようです」
そう言って彼女は初めて僕を見た。
僕を軽く見上げる彼女の顔を見て、僕は言葉を失った。
なんて綺麗な人なんだ・・。
僕は彼女から目を離す事が出来ず、半開きの口で凝視する事しか出来なかった。
「あなた、絵がお好きなの?」
「・・あ、はい」
「じゃ一緒に観て下さる?」
私一人では・・と言いながら彼女はスッと僕の手を取って、絵の前から離れた。
一瞬引き摺られる様になったが、突然のこの展開に僕の胸の鼓動は大きくなった。
それから僕らは、ずっと手を繋いだまま色々な作品を観て回った。
無言のまま。
小一時間経った頃、彼女が口を開いた。
「変な人って思ったでしょ?」
「え、あ・・はい。いえ!そんな・・」
「怖かったの、一人では」
「有難う、何も言わず一緒に観てくれて」
「いえ、僕も・・」
「ぼくも?」
「・・嬉しかったです」
それしか言えなかった。
いや、正直に言うと・・繋いだままの手が温かくて柔らかくて、嬉しかったなんて言ってしまったのだ。
それを聞いた彼女が微笑んでいった。
「一休みしましょう」
「はい」
僕らは、美術館に併設されているカフェに行き、窓際のカウンター席に座った。繋いだ手はそのままで・・。
彼女はアイスティー、僕はアイスコーヒーをオーダーした。
その間も繋いだ手はそのままだったから、ウエイトレスからは奇異の目で見られた。
でも、そんなことは一つも気にならなかったのだから、僕自身、そんな一種異様な状況にちょっと頭がスッ飛んでいたのだろう。
冷たい飲み物を僕は右手で、彼女は左手でストローを使って飲んだ。
「何をなさっているの?」
「仕事・・ですか?」
「いいえ、今よ」
「え?」
質問の意味を理解できなかった僕は、彼女を見つめて言った。
「アイスコーヒーを飲んでますが・・」
「ほほほ、面白い方ね、あなたは」
彼女は窓の外を見ながら微笑んで言った。
一瞬、バカにされているのか?とも思ったが、微笑む彼女の横顔は全く無邪気に見えてそれ以上は何も言えなかった。
「私はね・・」
「あなたを感じているの」
「・・はぁ?」
「こうして繋いだ手を通してね、あなたがどんな方なのか、今、何を考えているのか探っているのよ」
そう言いながら僕のほうを向いた彼女の瞳には、外の緑がキラキラと映り込んでいて、僕はその瞳に吸い寄せられた。
「キスして」
「え、ここで・・ですか?」
「そう、今ここで」
僕は瞳と言葉の暗示にかかった様に、なんの躊躇いも無く彼女の唇に自分の唇を重ねた。
「あなたは・・」
「キスの時に目を閉じるのね」
短いキスの後、彼女が言った。
「だって、普通はそうなんじゃないですか?」
「私は、あなたを見ていたわ」
「奥二重なのね」
そういう問題か?とも思ったが、この時すでに僕は彼女に心を奪われそうになっている自分を自覚した。
彼女は左手で帽子を取り、カウンターに置いた。
ウエーブのかかった、栗色の髪が素敵だった。
「アイスコーヒーは美味しいかしら?」
「あ、はい。なかなか・・」
「私にも飲ませてくださる?」
「はい、どうぞ」
右手でアイスコーヒーのグラスを差し出すと・・「そうじゃないの、あなたのお口からいただきたいの」
「え?」
ここで口移しか?と思ったが、彼女の言葉には不思議に断れない響きがあった。
「・・はい」
意を決して一呼吸置いた僕は、ストローで吸ったアイスコーヒーを口に含ませて彼女に顔を近づけた。
彼女はごく自然に顔を斜めにキスしてきて、僕の口からアイスコーヒーをコクっと飲んだ。
「美味しいわ、あなたのアイスコーヒー」
「ちょっと、ごめんなさいね」
そう言って彼女は、ずっと繋いでいた手を放して両手で髪を直した。
少しだけ首を左右に振りながら・・。
「私のこと、知りたい?」
「はい、出来れば・・」
「面白い方ね」
微笑みながらそう言うと、彼女は椅子から立ち上がりまた、僕の手を取った。
「行きましょうか」
「・・はい」
彼女に手を曳かれたまま会計を済ませ、僕らは美術館の外に出た。
行きましょうって、これからどこへ行くんだろう・・。
「あの・・」
「なに?」
「どこに向かっているんですか?」
「私の事を知りたいんでしょう?」
「はぁ、それはそうですけど・・」
ゆっくりいきましょう・・と彼女は呟いて、僕らはそのまま大きな噴水の横を通り博物館の前を左に折れた。
道々、彼女は話してくれた。
自宅は芸大の近くでご主人は画家。
昔、ご主人のモデルをした縁で結婚した事など。
「あなたはお一人?」
「いえ、僕も結婚してます」
「そう・・お幸せ?」
「まぁ、そこそこ」
「正直なのね、あなたは・・」
僕の答えを聞いた彼女は、ほほ・・と笑いながら言った。
なんと答えていいのか分からない僕をいたぶる様に、彼女は立ち止まって僕をきつく抱きしめた。
そして僕の胸に耳を押し当てて言った。
「鼓動が速いわ」
「そりゃ・・だって」
「かわいい人」
そう言われた僕は、彼女の顔を両手で包んでキスをした。
ちょっと季節に遅れた蝉の声が、やけに大きく耳についた。
彼女の家は、芸大を過ぎた交差点を曲がって、すこし坂を下った辺りにあった。
黒塀に囲まれた門をくぐり、平屋の日本家屋と後に増設されたのであろう小さな洋館。
母屋の玄関の鍵を開けて、彼女に手をひかれたまま軋む廊下を歩いて洋館に入った。
折からの秋の西日が、ステンドグラスを通して不思議な色を部屋中にぶちまけていた。
洋館はアトリエだった。
無造作に立てかけられたいくつものイーゼル、積み重ねられた額縁に沢山の作品・・。
その可憐とも見方によっては妖艶ともとれる微笑みを浮かべたモデルに、そう、彼女は似ていた。
それは今から30年程前、世の中がやっと新元号に慣れ始めた頃の事だった。
僕は30代前半で仕事も軌道に乗り、少しずつではあったが自由な時間を持てる様になっていた。
ある秋の日、僕はこれと言った目的も無く上野を訪れ、美術館に入った。
平日の空いている館内の、静かな時間を味わいながらのんびりと観て回っていた。
そして、ある一枚の若い作家の絵に釘付けになり、しばしそこを動けなくなった。
それは風景画だったのだが、絵の中の空や木々に何かしら観る者を離さない気迫というか情念のようなものが宿っている様に感じられて・・。
圧倒されていたのかもしれない。
ふと気配を感じて横を見ると、唾広の帽子を目深に被った小柄な女性が同じ絵を凝視していた。
この人も何か感じているのだなと思い、また絵を観た。
暫くはそのままだったが、その女性が口を開いた。
「なんて悲しい絵・・」
「え?」
意外な言葉に驚いた僕は、思わず女性を見た。
彼女は静かに涙を流していた。
絵を観ながら泣いている彼女の横顔を僕は見つめた。
頬を一筋の涙がまた、転がり落ちた。
思わず僕は話しかけた。
「悲しい・・ですか?この絵は」
「ええ、嗚咽が聞こえてくるようです」
そう言って彼女は初めて僕を見た。
僕を軽く見上げる彼女の顔を見て、僕は言葉を失った。
なんて綺麗な人なんだ・・。
僕は彼女から目を離す事が出来ず、半開きの口で凝視する事しか出来なかった。
「あなた、絵がお好きなの?」
「・・あ、はい」
「じゃ一緒に観て下さる?」
私一人では・・と言いながら彼女はスッと僕の手を取って、絵の前から離れた。
一瞬引き摺られる様になったが、突然のこの展開に僕の胸の鼓動は大きくなった。
それから僕らは、ずっと手を繋いだまま色々な作品を観て回った。
無言のまま。
小一時間経った頃、彼女が口を開いた。
「変な人って思ったでしょ?」
「え、あ・・はい。いえ!そんな・・」
「怖かったの、一人では」
「有難う、何も言わず一緒に観てくれて」
「いえ、僕も・・」
「ぼくも?」
「・・嬉しかったです」
それしか言えなかった。
いや、正直に言うと・・繋いだままの手が温かくて柔らかくて、嬉しかったなんて言ってしまったのだ。
それを聞いた彼女が微笑んでいった。
「一休みしましょう」
「はい」
僕らは、美術館に併設されているカフェに行き、窓際のカウンター席に座った。繋いだ手はそのままで・・。
彼女はアイスティー、僕はアイスコーヒーをオーダーした。
その間も繋いだ手はそのままだったから、ウエイトレスからは奇異の目で見られた。
でも、そんなことは一つも気にならなかったのだから、僕自身、そんな一種異様な状況にちょっと頭がスッ飛んでいたのだろう。
冷たい飲み物を僕は右手で、彼女は左手でストローを使って飲んだ。
「何をなさっているの?」
「仕事・・ですか?」
「いいえ、今よ」
「え?」
質問の意味を理解できなかった僕は、彼女を見つめて言った。
「アイスコーヒーを飲んでますが・・」
「ほほほ、面白い方ね、あなたは」
彼女は窓の外を見ながら微笑んで言った。
一瞬、バカにされているのか?とも思ったが、微笑む彼女の横顔は全く無邪気に見えてそれ以上は何も言えなかった。
「私はね・・」
「あなたを感じているの」
「・・はぁ?」
「こうして繋いだ手を通してね、あなたがどんな方なのか、今、何を考えているのか探っているのよ」
そう言いながら僕のほうを向いた彼女の瞳には、外の緑がキラキラと映り込んでいて、僕はその瞳に吸い寄せられた。
「キスして」
「え、ここで・・ですか?」
「そう、今ここで」
僕は瞳と言葉の暗示にかかった様に、なんの躊躇いも無く彼女の唇に自分の唇を重ねた。
「あなたは・・」
「キスの時に目を閉じるのね」
短いキスの後、彼女が言った。
「だって、普通はそうなんじゃないですか?」
「私は、あなたを見ていたわ」
「奥二重なのね」
そういう問題か?とも思ったが、この時すでに僕は彼女に心を奪われそうになっている自分を自覚した。
彼女は左手で帽子を取り、カウンターに置いた。
ウエーブのかかった、栗色の髪が素敵だった。
「アイスコーヒーは美味しいかしら?」
「あ、はい。なかなか・・」
「私にも飲ませてくださる?」
「はい、どうぞ」
右手でアイスコーヒーのグラスを差し出すと・・「そうじゃないの、あなたのお口からいただきたいの」
「え?」
ここで口移しか?と思ったが、彼女の言葉には不思議に断れない響きがあった。
「・・はい」
意を決して一呼吸置いた僕は、ストローで吸ったアイスコーヒーを口に含ませて彼女に顔を近づけた。
彼女はごく自然に顔を斜めにキスしてきて、僕の口からアイスコーヒーをコクっと飲んだ。
「美味しいわ、あなたのアイスコーヒー」
「ちょっと、ごめんなさいね」
そう言って彼女は、ずっと繋いでいた手を放して両手で髪を直した。
少しだけ首を左右に振りながら・・。
「私のこと、知りたい?」
「はい、出来れば・・」
「面白い方ね」
微笑みながらそう言うと、彼女は椅子から立ち上がりまた、僕の手を取った。
「行きましょうか」
「・・はい」
彼女に手を曳かれたまま会計を済ませ、僕らは美術館の外に出た。
行きましょうって、これからどこへ行くんだろう・・。
「あの・・」
「なに?」
「どこに向かっているんですか?」
「私の事を知りたいんでしょう?」
「はぁ、それはそうですけど・・」
ゆっくりいきましょう・・と彼女は呟いて、僕らはそのまま大きな噴水の横を通り博物館の前を左に折れた。
道々、彼女は話してくれた。
自宅は芸大の近くでご主人は画家。
昔、ご主人のモデルをした縁で結婚した事など。
「あなたはお一人?」
「いえ、僕も結婚してます」
「そう・・お幸せ?」
「まぁ、そこそこ」
「正直なのね、あなたは・・」
僕の答えを聞いた彼女は、ほほ・・と笑いながら言った。
なんと答えていいのか分からない僕をいたぶる様に、彼女は立ち止まって僕をきつく抱きしめた。
そして僕の胸に耳を押し当てて言った。
「鼓動が速いわ」
「そりゃ・・だって」
「かわいい人」
そう言われた僕は、彼女の顔を両手で包んでキスをした。
ちょっと季節に遅れた蝉の声が、やけに大きく耳についた。
彼女の家は、芸大を過ぎた交差点を曲がって、すこし坂を下った辺りにあった。
黒塀に囲まれた門をくぐり、平屋の日本家屋と後に増設されたのであろう小さな洋館。
母屋の玄関の鍵を開けて、彼女に手をひかれたまま軋む廊下を歩いて洋館に入った。
折からの秋の西日が、ステンドグラスを通して不思議な色を部屋中にぶちまけていた。
洋館はアトリエだった。
無造作に立てかけられたいくつものイーゼル、積み重ねられた額縁に沢山の作品・・。