狐鬼 第二章
20
其の獣は、気怠くも其の眼を開けた
畝(うね)る芒の穂先越し、底抜けの空に雲が棚引く
のっそりと起き上がる其処は、一面の芒が原
其の鼻先で撫でる穂先は夢か幻か現か、当の獣すら忘れ掛ける
此処は「夢」であって
此処は「幻」であって
此処は「現」だった「場所」だ
琥珀色の、背中の毛が逆立ち
琥珀色の、双眸を細めて大欠伸を噛ませば
一瞬にして
其処は際限無い、深い霧の中
朱い鳥居に朱い提灯
檜細工の格子宮が薄ら浮かび上がる
丸で神棚の稲荷社
霧の中、確かに漂よう微かな匂いに
口元に何とも言いようのない笑みが零れる
其の獣は何時しか、先にある「社」をスナチベ顔で眺めていた
奥行きの無い、外観とは違い
格子宮の内部は座敷が止め処なく広がる
入口の格子扉は固く閉じられていて
時折、其の奥からは幾つかの声が漏れていたが
黒狐が退場した今は一同、無言だ
軈(やが)て
「然(しか)し」
「彼(あ)の「さ狐」で良いのか?」
囲炉裏を囲み長座する
(横座から見て)右の老狐が誰に問うでもなく吐き捨てる
が、会話を受け取る
横座の主(長老狐)が「否(いや)否(いや)否(いや)」と首を小刻みに振りながら
あっさりと否定した
「悪るいだろう」
其の言葉に
其の態度に、(当然)一同はあんぐりする
一斉に
「否(いや)!否(いや)!否(いや)!」
吠える勢いで立ち上がり掛けるも
長老狐が眇(すが)める眼光に射抜かれた結果、屁っ放り腰で右往左往する
「では!」
「では止めねば!」
「「さ狐」に若(も)しもの事があれば(彼の)親父が黙っていないぞ!」
「儂(わし)は(彼の)兄の怒りだけは買いたくない!」
(キャンキャン)吠え始める
一同を横目に長老狐が仰け反り大笑いする
「考えろ考えろ、老狐 等(ら)よ」
地が這うがように低い
微妙な掠れ具合の笑声は神神しいというよりは禍禍しい
当然、静まり返える座敷内は長老狐の、次の台詞(セリフ)を待った
「「さ狐」の(彼の)親父も」
「「さ狐」の(彼の)兄も野放図(のほうず)に生きている、札付きの「神狐」だ」
漸(ようよ)う
老狐 等(ら)は中腰姿勢から再び、腰を下ろす
「人間の「雌(メス)」に骨抜きにされた挙句」
「以降、何処で何があろうが彼(あ)の父子(おやこ)は知らん顔だ」
一同、意義なく首を縦に振る様子に
長老狐は大分、濁る眼を細めて歯肉を剥いて続ける
「「神狐」として嘆かわしい」
其の言葉に
(横座から見て)左の老狐が鼻に皺を寄せて吐き捨てる
「神力の、持ち腐れだ」
誰も彼もが
(彼の)親父の
(彼の)兄の「神力」には一目置く
其の為
現状を受け入れられない「思い」があるのも事実だった
心底、項垂(うなだ)れる
(横座から見て)左の老狐に手(前足)を添える、長老狐が染み染み述べる
「彼(あ)の親父も」
「彼(あ)の兄も右に出る者はいない、素晴らしい「神力」の持ち主だ」
「まあ」
「何方(どちら)が何方(どちら)に勝るかは別にして、な」
何気なく問題提起した形になったのか
其れを切っ掛けに始まる
(横座から見て)右の老狐と正面の老狐の「何方(どちら)が勝るのか?」議論
「親父か?」
「否 兄か?、否 親父か?」
「否否、親父か?」
横座の主である長老狐は
自分が振った話題とはいえ
自分の話、其方(そっち)退(の)けで盛り上がる?
「おい、お主(ぬし)は何方(どちら)だ?」
と、きょとん顔の、左の老狐に聞き出す老狐 等(ら)を
炉縁(ろぶち)を軽く叩いて諌(いさ)める
途端、場都合(ばつ)悪く
上目遣いで各各の身体を小さくする
(横座から見て)右の老狐と正面の老狐を交互に睨め付けた後
「兎に角」此処からが本筋だ、とばかり話し始める
「(彼の)親父も」
「(彼の)兄も、儂 等(ら)の頼みを二つ返事で頷く輩ではない」
然(そ)うして
前屈みになる
長老狐に釣られるように
囲炉裏を囲む老狐 等(ら)も前のめり耳を欹(そばだ)てる
此れは聞かれては拙(まず)い
内緒話
不図(ふと)
横座の主である、長老狐の話声が途切れる
漸(ようや)く「其れ」を見留めたのか
然(そ)う
此れは聞かれては拙(まず)い
内緒話、だった
何時(いつ)しか
固く閉じている筈の「其れ」が、入り口の格子扉が開(あ)いている
「又、か」
等(など)、独り言(ご)ち瞼を瞑(つぶ)る長老狐の様子にも
知らぬ間に漂よう、おどろおどろしい雰囲気に老狐 等(ら)も押し黙る
「故(ゆえ)に」
突如、響き渡る其の獣の声は
余りにも淡淡とし過ぎていて「感情」が読み取れない
其れが「不気味」と言えば「不気味」だ
「故(ゆえ)に「さ狐(こ)」を使うのか?」
気が付けば
「不気味」な、其の獣の声に無防備にも背中を向けている
(横座から見て)正面の老狐が念仏の如(ごと)く(落ち着け落ち着け…)唱えている
そりゃ然(そ)うだ
背後からの「圧」は相当なものだろう、と同情する
(横座から見て)右の老狐も左の老狐も「儂 等(ら)も変わらんが」と、身構える
「俺か、?」
「親父殿が「さ狐(こ)」を追うだろうと見通(みとお)して?」
随分と無礼だな
其の獣が吐き捨てる
声なき声に老狐 等(ら)は勿論、横座の主も奥歯を搗(か)ち鳴らす
到頭、座敷を上(あが)る
踏み締める畳が軋む音に自制の(比喩的に)臨界点に達する
(横座から見て)正面の老狐が不動のまま吠えた
「!!「り狐(こ)」ー!!」
「!!(頼む)落ち着かんかー!!」
(正面の老狐の)渾身の、雄叫びを受けて
琥珀色の毛を靡(なび)かせる、其の獣 事
金狐が是又(これまた)、琥珀色の眼を細めて答える
「其(そ)れ」
「俺の「台詞(セリフ)」だろ?」
緩緩(ゆるゆる)と座敷に腰を下ろす
金狐が長閑(のどか)に大欠伸を噛ます中、悲しい哉(かな)
老狐 等(ら)が其の顔を覗き込む、正面の老狐は白眼を剥いていた