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~王を導く娘~観相師

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 自分は、いつから、こんな嫉妬深い女になってしまった? これが誰かを愛するということならば、愛とは、とても怖ろしく身勝手なものなのだろうか。
 明華はヨンにどんどん傾いてゆく我が身の心が少しだけ怖いとも思う。
 だけど、自分はこの男を愛してしまった。もし彼が明華の身勝手な願いを受け入れてなお、明華を必要としてくれるなら、明華もまた彼から離れることはできないだろう。 
 ヨンがまた手を伸ばし、明華を逞しい両腕に閉じ込めた。
「生憎と、これから先、明華以外の女は眼に入りそうにない。こうなったら、乗りかかった船だ。何年でも待ってやろうではないか」
 ただし、と、彼が明華の耳朶に熱い吐息を注ぎ込む。
「いくら何でも白髪頭の爺ィになるまで待たされるのはご免だぞ?」
「はい」
 頷いた明華の大きな瞳から、澄んだ涙がひと雫こぼれ落ちた。
「後はもう一つ、これだけは約束してくれ」
 ヨンが真剣な面持ちで言った。
「私のために自分の身を危険にさらすようなことは二度と止めてくれ」
 彼は袖から薄紫色のチュモニを取り出し、ムラサキカタバミのノリゲを手にした。
 早春の陽差しに紅蛍石(ピンクフローライト)が燦然と煌めきを放った。
「愛している」
 心からの言葉と共に、想いのこもった小さなノリゲを明華に差し出した。
 ヨンの綺麗な顔が近づいてくる。明華は眼を閉じ、初めての口づけを受け止めた。しっとりとした彼の唇は、ほのかな熱を持っている。
 啄むような口づけが徐々に深くなり、本能的に怯えて逃げを打とうとすれば、彼の手にしっかりと腰を抱かれた。
「絶対に離さない」
「離れろと言われても、離れたくありません」
「可愛い顔をして、なかなか男殺しの科白を言う」
 ヨンの軽い笑い声が早春の澄んだ大気に響いた。
 春三月、都漢陽は日ごとに春の気配が増してゆく季節、かつて非業の死を遂げた淑媛ユン氏の殿舎の庭には、愛らしい紅梅が今を盛りと咲き誇っていた。
ー燕海君さま、よろしいですか、いつか、あなたが長い生涯を共にされる姫君が現れた時、これを差し上げて下さいね?
 明華を腕に抱いたヨンはその時、確かに、ありし日の淑媛の声を聞いた。
 燕海君は眩しげに眼を細め、頭上の紅梅を見上げる。春光を浴びて花開く無数の花たちの向こうに、幼い頃に一途に慕った美しい廃妃の笑顔が見えるような気がしてならなかった。

 
 明華が永の暇を願い出て後宮を去ったのは、三月の終わりのことである。その頃には漢陽でも桜が咲き始め、都は一年を通して最も晴れやかで美しい季節を迎えようとしていた。
 貧民街の粗末な我が家に戻った明華は、また目抜き通りの四つ辻で観相を始めた。
 元の暮らしに戻っても、明華はしばらくは不安だった。何がといえば、やはり天命に背いた報いがどのような形で現れるのかということだ。
 けれど、幾ら覚悟して待ち受けようとも、その天の報いとやらは起きなかった。
 実のところ、明華は母の科白を結局、最後まで聞かずじまいだったのだ。
 確かに母は天意に背いてはならないと彼女を厳しく戒めたが、その後には、こんな科白が続くはずだった。
ーただし、報いを受けずに済む例外がたった一つある。それは、毒をもって毒を制するにあらずして、毒を良きものに変えようとする祈りにも似た決意のみ。即ち、その身に災降りかかるをも覚悟して、ただ大切な者のために清らかな心で誰をも傷つけず、悪しき流れを善き流れに変えることに成功した者だけ。
 つまり、自らの危険を顧みず、ただ愛する者の幸せを無心に願い行った術が成功すれば、天罰は下されず代わりに大いなる祝福が与えられる。
 明華の母は、そう伝えたかったのだ。
 しかしながら、まだ幼い娘には難しすぎる理屈だと娘の成長を待って伝えるつもりだった教えは、母の急逝により、明華に伝わらなかった。
 母の教えの真実の意味を明華が身をもって悟るのは、まだもう少し先になりそうである。
 想いに耽る彼女の上から、抑揚のある深い声が降ってきた。
「腕利きの観相師どの、私の運命を観て貰えないか?」
 愕いて顔を上げたその先に、大好きな男の顔がある。
「チ、殿ー」
 言いかけ、慌てて言い直す。
「若さま」
 今日のヨンは薄緑のパジチョゴリを纏い、カツを目深に被っている。服の色に合わせたのか、鐔広の帽子から顎に垂れ下がるのは翡翠だ。仕立ての良い絹の服が美男ぶりを更に際立たせている。
 明華はといえば、木綿の慎ましいチマチョゴリではあるが、チマはまさに今、都にひろがる春の空のように明るい空色だ。爽やかな色合いは明華の雪肌によく合っている。
 上衣の前紐にはムラサキカタバミを象った紅蛍石のノリゲが結ばれ、彼女が身動きする度にかすかに揺れる。そろそろムラサキカタバミの季節である。しなやかな強さを持つこの花は比較的どこでも見かけられるのだ。
 ヨンが茶目っ気たっぷりに片眼を瞑り、意味深な流し目をくれた。たったそれだけで、情けなくも明華の鼓動は早鐘を打ち始め、ボウと上気してしまう。彼は笑いながら腰をかがめ、座り込んで見上げる明華の唇を素早く奪った。
 明華の白い頬が熟れたように染まるのを、嬉しげに眺めている。愉しげに笑うヨンの向こうに明華が一瞬観たのは、渦巻く雲が海のように一面に折り重なる雲海の中、どこまでも気持ち良さげに泳ぐ青磁色の雄々しい龍であった。
 燦々と輝く日輪が雲海を遍く黄金色(きんいろ)に染め上げる中、龍は自らの鱗をも金色(こんじき)に輝かせながら、天高くどこまでも昇っていった。




  続きの物語へと至る詞

 その後、廷臣一同の国王への認識が根底から覆ったのは言うまでもない。
 浄心の術が成功し、大王大王大妃による国王暗殺計画は露と消えた。もうヨンが偽りの自分を演ずる必要はまったくない。
 また、王自身が敢えて反正を起こす必要もなくなった。この後、王朝時代後期、朝鮮は内政も安定し、文化が爛熟する時期を迎える。
 燕海君は生まれ変わったように政務に熱心に打ち込み、民を労る善政を敷いた。
 都はむろん朝鮮全土の民が王を太祖の再来と崇めるようになるのは、遠い先のことではない。
 そして、王の良い意味での変貌ぶりの陰に、一人の少女の存在があることを知る者はいなかった。
 なお、この数年後、廃妃ユン氏は生前の罪一等を免ぜられ、復位することになる。王はユン氏の名誉を旧に復しただけでなく、追贈という形で位階を従二品淑儀に引き上げた。
                               (了)
 











椿
 花言葉ー美徳、確固・不変、私はつねにあなたを愛します。ひかえめな素晴らしさ(椿全般)。完全なる美しさ、至上の愛らしさ(白椿)。ただし、白椿の裏花言葉としては、「罪を犯す女」といういささか物騒なものもあるらしい。


ムラサキカタバミ
 花言葉ー輝くこころ、歓び、母の優しさ






ピンクフローライト
 宝石言葉ーストレスを流す、集中力を高める。ブルーやグリーンのフローライトと基本的に効果は同じだが、ピンクは特に人間関係などに対する愛情運を底上げしてくれる。
 和名は蛍石。本作中の「紅蛍石」は作者自身の造語である。