六人の住人【完結】
時子は、辛かった過去の話をするのを、意識的に避けてきた。
過去、時子は「いつまで昔のことに固執してるんだよ」と冷たくあしらわれたことが何度もあり、本当はPTSDを抱えていて、今も過去の傷から血が噴き出し続けていることに気づく人間は、居なかった。それに気づいたのが時子の今の夫で、このカウンセリングルームを探し当てたのも彼だった。
俺はさっき「引っ張りだされた」と言ったが、誰に引っ張りだされたのか。それは時子自身だ。
彼女は俺たちのことは意識的には何も知らないが、おそらく無意識下の逃避行動として、その瞬間に一番見合った人格を選び出して表につん出し、自分は引っ込むのだ。
時子は、常に疲労して、傷つき続けている。彼女は一分一秒の隙もなく、「早く死にたい」としか考えていない。そして、その気持ちを抱えながら夫に愛されることにさえ、罪悪感を感じてまた傷つく。
そして、ほかの人格が表に出ている時、時子はどこに居るのか。
以前の話で、俺たちは横一棟の区切られた部屋の中に住んでいると話した。そしてその部屋から出た横には、深い深い穴が掘られている。
これは時子の心の中の風景だが、その奥底に時子は柔らかなハンモックを長く長く吊り下げて、そこで眠り込んでいるのだ。
俺が眠気を感じて目を閉じると、俺は自分の部屋の前に立っている。俺の部屋のすぐ横には、時子が潜む穴がある。その穴の底は暗くて、覗こうとしても果ては見えない。
俺が「自分は戻らないといけないんだろうな」と感じてノブに手を掛ける時、穴の底からは必ず、こんな叫び声が聴こえるのだ。
「いや!いや!もう誰とも会いたくない!私は早く死にたいだけなのに!」
幼い頃から母親に、「早く死んで欲しい!お前みたいな下らない人間が生きてたら迷惑なのよ!」と、毎日のように言い聞かせられた時子は、自分を“死ななければいけない人間”のように捉えている。俺はあの女を殺しても恨み足りない。
それでも俺が部屋のドアを開けると、地中深くに潜っていたハンモックは急に飛び上がり、その時、時子の絶叫が俺の耳をいつもつんざくのだ。
“俺はどうしていつも…”
そうして俺は部屋の布団に横になり、テーブルの上のスタンドライトの灯りを消し、目を閉じる。