六人の住人【完結】
1話「俺の名前」
俺の名前は五樹(いつき)。苗字は無い。好物はコーラとラーメン、それからペヤングに、ポテトチップスと、トルティーヤチップス。
小さな俺の部屋は、スタンドライトの乗ったローテーブルと、布団、それから天井から下がる照明機器の他には、何もない。
俺の隣の部屋には、「悠(ゆう)」という子供が一人で眠っているはずだ。その隣には「美由紀(みゆき)」、そしてそのまた隣は「彰(あきら)」、さらに最後の端には、「桔梗(ききょう)」。そして俺たちが住む部屋の管理人は、まだ会ったこともないけど、「時子(ときこ)」という名前だ。実は俺たち全員の名付け親は、この「時子」だったりする。
俺は、時子の顔を見たことがないわけじゃない。顔ならよく知ってる。でも、彼女は俺たちのことを知らないから、言葉を交わしたことはない。ただ、俺は時子がどういう人物で、どのように生きてきたのかを、すべて知っていた。それでなのか、俺はどうかすると崩れ落ちてしまいそうな彼女の境遇について、時たま深く考え、自分たちに名前を付けてくれた存在が今も苦しんでいることに対して、嘆きを抱いている。
でも、俺にはどうせ何もできない。時子は、俺たちのことは何も知らないからだ。
時子が幼い頃に生まれた「悠」も、23歳で出会った俺も、14歳の頃に時子のそばに居た「桔梗」も、16歳の頃に時子の周りに現れた「彰」も「美由紀」も、時子からすれば、なんの関係もない人間たちなのだ。
それでも俺たちは時子を見守ってきたし、俺は時子のことならなんでも知っている。
彼女が苦しみ続けながらも、潔白な心を保とうとして、そのうちに自分を失くしたことも。
「やあ、久しぶり」
俺は目を覚まし、あたりを見回してそう言った。
見なくても分かるが、ここはテーブルの上で、俺は伏せていた体を持ち上げ、あくびをしながら目をこする。
1DKで、家賃の安い、やや縦長のアパート。玄関脇にはすぐにキッチンがあり、そこからドアもなく続いたダイニングには、ベランダへの出口があった。ダイニングの隣は、大きな窓がある寝室だ。
軽鉄骨製の室内はエアコンが点いていてもじんわりと暑く、ベランダに面した窓は、それでも遮光遮熱の分厚いカーテンに覆われていた。この家の冬は、とても寒くなる。
ダイニングにはテレビやオーディオ機器の置かれたスチールラック、木製のテーブルと椅子が二脚、そして食器棚が二つ置かれていた。棚の上の段には洒落たコーヒーカップなどが並び、下の段には、今では使わなくなってごっちゃに突っ込まれた食器たちが、ひっそりと隠されている。
「五樹君か、久しぶり」
俺の前には、時子が3年前に結婚した、彼女の夫が居る。俺と彼は、近ごろではいい友人だ。ただ、時子は今は居ない。俺は彼女の家で彼女の夫と向き合い、時子について少し話をした。
テーブルに乗っている、時子が飲んでいたコーヒーのカップを、俺はなんとなく見つめていた。
「時子は、かなり疲れてるみたいだね」
時子の心配をする彼女の夫は、俺を覗き込んで、心配そうにため息を吐く。
「そうだな」
俺はちょっと言いたくなったことについて、「言うべきか言わずにいるべきか」を考えた。でも、彼女の夫が時子の窮地を知っていてくれることには、デメリットはない。
「今は眠ってるよ。でも、眠りながらやっぱり泣きわめいてる。「こわい、いやだ、もういやだ」…俺にはそれが聴こえるんだ、全部」
俺が言ったことに、時子の夫は泣きそうな顔をした。
変な話だと思うだろう。会ったこともない人間について、「声が聴こえる」、だなんて。
顔も合わせたことのない人間が泣きわめいているのが、なぜ俺にはわかると言うのか。それには深い訳がある。
時子を除く俺たち五人は、彼女が持つ、「別人格」なのだ。だから時子は、俺たちに気づくことが出来ない。主人格は、他の人格の認知が不可能だ。
そして俺たちの中で、彼女の記憶を写し取って見ることができるのは、7歳の男児である「悠」を除き、全員だ。
俺は時子の夫が差し出してくれたコーラのペットボトルを受け取り、「気が利くね」と言った。
「好物だったろ」
「まあね」
俺は今、時子が「炭酸は喉が痛くなるから飲めない」と言っていつもは飲まないコーラを、ゴクゴクと飲み下す。
「この喉ごしが最高なのにな」
俺がそう言うと、時子の夫は慣れた口ぶりで、「彼女は刺激に弱いから」と笑った。
時子の心がこんな風に分かたれてしまってから、もう、何年になるだろう。そして、今まではほとんどの時に時子が日常を過ごしていたのに、今になって俺たちが頻繁に表に出るようになったのは、なぜなのか。
そのことを話すには、もう少し長い話をしなければいけない。それは、もう一度この文章を書く時に考えるとしよう。