鈴蟲
酷く暑い日の続く夏であった。
待望の雨季まではあと僅かであったが、井戸が枯れ河川が干上がってから、早ひと月が経とうとしていた。
男が歩いている。襤褸《ぼろ》を纏《まと》い、同じく破れかけの菅笠を目深に被っている。履物も有るには有ったが殆ど裸足と言って良い有様であった。
街道の土の表面はからからに渇ききり一足毎に舞う土埃は風に流される事も無く朦朧《もうろう》と立ち上る陽炎の中に薄く溶け込むように消えて行った――。
男は名を遠雷と言った。元々の名は遠頼という。
元は此処より北に五十里程行った処の大きな街に在った、とある大きな商家で、奉公人としてはかなりの地位を得ていた事もあった。
だが、長年を掛けて得た地位と仄かに恋慕を寄せていた主人の娘を、担ぎ売りから転じて奉公に上がった年若の後輩に攫われ、逆上して一家を惨殺。手に持てる金品を奪い出奔してから数年が経っていた――。
奪った金は使いきり、持ち出した装飾品等も全て換金したが手元には既に何も残ってはいなかった。
ただ一つ、人妻となった恋しい主人の娘を手に掛ける時に奪った髪飾りを除いては――。
遠雷は疲れきった足を休めるために道端の木陰を選んで腰を下ろした。木陰と言っても葉は繁っておらず、太い幹の影に入り込んだだけであった。
乾燥し切った街道には蝉の声さえも聞こえては来なかった。
いつの間にか、遠雷は眠ってしまった様だ。
近くの枯れ色の藪からは、りいん、りいいんと少し気の早い鈴虫の涼しげな音が聞こえていた気がする。
「おい、起きなせぇ。こんな所で寝ていては死んでしまうぞ」遠雷の肩を揺すったのは、牛に引かせた荷車に幾つかの西瓜を積んだ老人であった。もしかすると老人とは言えない歳なのかも知れない。だが、日に焼けた顔と深く刻まれた皺。不揃いでまばらに生えた頭髪は老人と呼ぶ事に躊躇《とまど》いを抱かせる事は無かった。
待望の雨季まではあと僅かであったが、井戸が枯れ河川が干上がってから、早ひと月が経とうとしていた。
男が歩いている。襤褸《ぼろ》を纏《まと》い、同じく破れかけの菅笠を目深に被っている。履物も有るには有ったが殆ど裸足と言って良い有様であった。
街道の土の表面はからからに渇ききり一足毎に舞う土埃は風に流される事も無く朦朧《もうろう》と立ち上る陽炎の中に薄く溶け込むように消えて行った――。
男は名を遠雷と言った。元々の名は遠頼という。
元は此処より北に五十里程行った処の大きな街に在った、とある大きな商家で、奉公人としてはかなりの地位を得ていた事もあった。
だが、長年を掛けて得た地位と仄かに恋慕を寄せていた主人の娘を、担ぎ売りから転じて奉公に上がった年若の後輩に攫われ、逆上して一家を惨殺。手に持てる金品を奪い出奔してから数年が経っていた――。
奪った金は使いきり、持ち出した装飾品等も全て換金したが手元には既に何も残ってはいなかった。
ただ一つ、人妻となった恋しい主人の娘を手に掛ける時に奪った髪飾りを除いては――。
遠雷は疲れきった足を休めるために道端の木陰を選んで腰を下ろした。木陰と言っても葉は繁っておらず、太い幹の影に入り込んだだけであった。
乾燥し切った街道には蝉の声さえも聞こえては来なかった。
いつの間にか、遠雷は眠ってしまった様だ。
近くの枯れ色の藪からは、りいん、りいいんと少し気の早い鈴虫の涼しげな音が聞こえていた気がする。
「おい、起きなせぇ。こんな所で寝ていては死んでしまうぞ」遠雷の肩を揺すったのは、牛に引かせた荷車に幾つかの西瓜を積んだ老人であった。もしかすると老人とは言えない歳なのかも知れない。だが、日に焼けた顔と深く刻まれた皺。不揃いでまばらに生えた頭髪は老人と呼ぶ事に躊躇《とまど》いを抱かせる事は無かった。