Hydra
一
― 現在 ―
アスファルトが泳いでいる。柳岡えりかは、道のはるか先に見える陽炎に目を細めながら、白いキャップを少し目深にかぶり直した。海沿いの道から一段上がった、別荘地へ続く細い道。数人がたむろできる公園があって、昔は遊具もあった。視界を遮るのはかすかに入りこむ民家の屋根ぐらいで、海が見渡せる。家から百キロ近く車で走って来るこの場所は、いつだって特別な意味があった。生まれてから高校卒業まで暮らしたのだから、当然と言えば当然。リュックサックの紐を肩から抜いて、申し訳程度に残されたベンチに腰掛けると、柳岡は水筒に満たされた氷水をひと口飲んだ。水というのは不思議だ。なかったら生きていけないのに、際限なく押し込まれると人は窒息する。
毎年の恒例行事は、結婚して『中崎えりか』になり、都会暮らしになって子供が生まれてからも、変わらない。正直、自分に小学生の息子がいて、三十三歳になったというのが、信じられない。ここから二時間走るだけで、穏やかに明るい声で笑う夫が迎え入れてくれるということも。
この土地を地元とか、そんな風に愛着を込めた言葉では呼びたくない。殺風景な都会に住んで気づいたのは、打ちっぱなしのコンクリートと何かを禁止する標識ばかりだからといって、住んでいる人までが荒んでいるわけじゃないということ。それと同じで、眼前に広がる透き通った青い海が綺麗だからといって、その周りに住む人の心が澄んでいるとは限らない。
柳岡はリュックサックからスケッチブックを取り出すと、地平線を眺めた。船が横切っているのが、おぼろげに見える。小学校から描いてきた風景画は中学校のときに担任の目に留まり、二年から美術部に入った。高校に入っても部活は続き、大学生になって生活環境がガラリと変わったことで、一旦中断された。それでも高校を卒業してから、毎年ここに来て絵を描くことだけはやめなかった。キャップを少し持ち上げて、眩しさに耐えながら目を大きく開くと、きらきら光っていて、青くて穏やかな海が見える。それがどれだけ美しくても、鉛筆画でスケッチブックに捉えられるのは、十六年前、南川原高校の生徒だったわたしが見ていた、もう少し暗いトーンで、色々な記憶が入り混じった景色。
柳岡えりか、所属は美術部。柳岡コンクリートのひとり娘。半世紀前、消波ブロックを作るのに無償の『お付き合い』をしてからは、わたしの両親は地元の名士扱いだった。柳岡一家というよりは、柳岡家を含んだ町内会という大きな共同体の一部に娘のわたしが居候しているような感覚は、ずっと消えることがなかった。
今日は七月十四日、七夕が終わって、海開きが始まるまであとわずか。
二〇〇五年 六月 ― 十六年前 ―
二年に上がって、ずいぶんとクラスの雰囲気が変わった。一年から引き続き同じクラスなのは、浜梨祐樹。中学校も一緒で、三年生のときは同じクラスだったから、これで三年目の付き合い。柳岡は、浜梨がうちわ代わりにした下敷きをぱたぱたと振って、自分の顔に風を送る様子を眺めていた。腕の筋肉を活用しすぎて、そのせいでかえって汗をかいているように見える。二年の教室は特に日当たりが強い。真夏になったら、どうするのだろう。
「無理かも」
浜梨は髪の毛をばたつかせながら言うと、扇ぐのを一旦諦めて、柳岡の方を向いた。
「全然、汗かいてねーじゃん。暑くないの?」
「暑いよ。あまり見ないで」
柳岡は苦笑いを浮かべた後、窓越しに割って入って来るトラックのエンジン音に顔をしかめた。浜梨はさっきまで扇いでいたのとは逆の手で、柳岡の方へ風を送り始めた。
「機嫌悪っ、ほら」
「あー分かってるね、君」
柳岡は、隣から流れてくる風に顔を向けて目を細めると、六限目が始まるチャイムの音を聞いた。この時間から、エアコンのない教室で数学。先生はどうやって正気を保っているんだろう。おそらく、もう廊下にはいるはずだ。クラスが落ち着くのを、声で察知しようとしている。
高校二年生にして、初めて『いじめ』というものを目にした。標的は、出席番号三番の天利。大きな目の下にはいつもクマがあって、小柄な上にその手足は細い。スカートのプリーツはぐちゃぐちゃに折れているところがいくつもあって、それは一年のときから変わっていないらしい。少し山の中に入った集落の出身で、名前をもじって『余りもの』と命名されている。天利を標的にしているのは倉神が筆頭で、机に突っ伏して動かない天利のポニーテールを手袋越しに持ち上げては、明後日の方向にはたき落としている。死にかけた虫をつついているようだ。柳岡は、窓越しに見える海に視線を向けた。倉神はバレー部のエースで、小柄な天利とは対照的だ。背が高く、その背筋はぴんと伸びていて、受け答えもはっきりしいて先生受けがいい。
「紗理奈、せんせー外に来てるよ」
取り巻きの古賀が倉神に言うと、熱がすっと引くように、人の輪がほどけていった。どれだけめちゃくちゃなことをしていても、先生は絶対的な存在。そして最悪なことに、先生から見た生徒もまた、絶対なのだ。バレーに力を入れている学校だから、倉神はあらゆるフリーパスを手に入れている。わたしがこの学校を選んだのも、美大へのパイプがあるからだし、人のことは言えない。
倉神が席に戻り、浜梨が小さくため息をついた。
「いつか、やめさせねーとな」
柳岡はうなずいた。その独り言は、いつも隣の席にいるわたしを巻き込んでいる。迷惑だと思わないし、天利があんな扱いを受けるのをこのまま放っておけない。一年のときに同じクラスだった同級生曰く、天利と同じ集落に住んでいる生徒が発端で、『余りもの』というあだ名は集落でも通用するらしい。天利家自体が村八分に遭っていて、頭を下げて集落に居つかせてもらっている状態。つまり、逃げ場はない。そして、クラスの掲示板には、天利に対してやったことを報告する専用のスレッドがある。そんな中、柳岡が気にかかったのは、もうすぐプールの授業が始まるということ。今までに見たことがないような悪いことが起きるのは、もう大体想像がつく。
数学の授業が始まり、しんと静まり返った教室の中にチョークの音が響き始めた。浜梨は最初の数分間、交互に自分自身と柳岡に風を送っていたが、教科書をめくるタイミングで中断し、そこからは静かになった。同じ美術部の相楽が、教師の目を盗みながらメールを打ち、柳岡のポーチの中でサイレントにした携帯電話が光った。
『転校したくなるね。私はこの町自体が嫌だ』
柳岡は口元だけで笑った。手紙のような硬い文体は、相楽友里のトレードマーク。良家のお嬢様ならでは。返事の代わりに目線だけでテレパシーのように『同感』と送り返すと、開けられた窓からすっと風が吹き込んできて、髪と首筋の隙間を抜けていった。