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江戸の夏、東京の夏 (掌編集~今月のイラスト~)

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「う~ん……もうひとつだねぇ、もうちょっと練ってごらんよ」
「はい……でもどこをどう直したら……」
「それは自分で掴むことね」
 そう言って師匠は立上り、寄席へ向かうための身支度を始めた。

 吉田淑子、32歳、芸名を今昔亭よしゑと言う。
 女流落語家だ。
 落語家の身分は見習い、前座、二つ目、そして真打の四つからなる。
 よしゑの今の身分は二つ目、大学を出て今昔亭つば女師匠に弟子入りし、ここまで順調に出世して来た。
 普通、噺家に入門してから真打に昇進するまでには十五年ほどかかる、だが、大学時代に学生名人になったこともあるよしゑは入門から十年で真打昇進に手が届く所まで来ている。
 大看板の師匠たちからも『そろそろよしゑに真を打たせてやったらどうだい?』と言う声が出ていることも知っている、だが師匠のつば女が首を縦に振ってくれないのだ。


 十年前。
「さすがに学生名人ね、基礎がしっかりできているわ、明日からでもいらっしゃい」
 初めてつば女師匠を訪れて弟子入りを志願した時、師匠の前で一席やるように言われた。
 そして話し終えると、つば女はすんなり入門を許してくれた。
 よしゑはつば女の最初で唯一の弟子、人気、実力ともに当代屈指のつば女のこと、志願者は大勢いたのだが男性の弟子は取っていない、見習いや前座のうちは師匠の身の回りの世話をするのが慣例、男の子にそれをさせるのは何となく気づまりだからというのがその理由、女性の志願者もいるにはいたが『向いていない』と判断して入門を許していないのだ。
『基礎がしっかりできている』と言われたが、唯一の弟子とあってみっちり稽古をつけてもらえるので、自分の『基礎』がいかに浅いものだったか身に沁みてわかった。
 だが、つば女は東大出身、細かい所までわかりやすく、しかもしっかりと教えてくれる。
 よしゑはぐんぐんと上手くなった。

 だが、周りから『そろそろ真打に』と言う声が上がってもつば女は許してくれない。
 少しじれてきた頃だった。

「あなた、新作をやってみない?」
「新作ですか……?」

 実はよしゑはガチガチの古典派、つば女も稀に新作を演ることはあるが基本的には古典派、師匠の真意を測りかねたが、尊敬する師匠の言うことだ、何か考えがあってのことなのだろうと思った。
「どんな噺が良いでしょう?」
「自分で書いてみるのはどう?」
「自分で……ですか?」
「あなた、文学部でしょ? きっとできるわよ」
「わかりました、書いてみます」
 新作落語を書いた経験はないものの、既に持ちネタは数十あるし、それ以外にも古典落語ならばほとんど憶えている、書けないはずはないだろう……そう思った。

「どうでしたか?」
「そうねぇ……」
 時代を江戸に取った新作を書いて師匠の前で話してみたが、反応はいまひとつ。
「もうちょっと練ってみて」
 普段稽古をつけてもらっている時は、かなり具体的なアドバイスを貰えるのだが、新作に関しては『もうちょっと練ってみて』……要するに練り直し、どこをどうしたらと言いとは言ってくれない。
 何度練り直しても反応は同じだった。

(もう、どこが悪いんだかわからない……)
 十回目練り直しても師匠の反応は『もうひとつだねぇ』
 もうどうして良いかわからなかった。

 十一回目の練り直しを聞いて貰うと、師匠は『もうひとつだねぇ』とは言わずにすっと立ち上がった。
「暑いし、一席話したら喉渇いたでしょ、聞いているだけでも渇くんだから……ちょっと待ってて」
 師匠が立ち上がったので、よしゑは慌てて立ち上がろうとした。
 師匠に飲み物など持って来させるわけには行かない……だが……。
「いいのいいの、あなたは座ってて」
 師匠はそう言って台所に立つと、アイスバーを二本持って戻って来た。
「はいどうぞ、ガリガリ君よ、あたしね、これ結構好きなのよね」
「すみません、ありがとうございます」
「冷凍庫ってありがたいわよね、もし江戸時代の人が真夏にこれを食べたら天にも昇る気分でしょうね」
「えっ?」
 よしゑも一口齧ってみる、冷たさが喉の火照りを冷ましてくれて、ソーダの刺激が渇きを癒してくれる……。
「あ……そうか……」
「何?」
「江戸の庶民って、夏でも生ぬるい水しか飲めなかったんですよね」
「そうね、長屋の井戸は玉川上水を引いてあるだけだから、言ってみればただの水溜め、深い井戸の冷たい水は武家屋敷とか大きな商家にしかなかったのよね」
「ええ、それに水運のための堀だらけだったから……」
「ええ、蚊には随分と悩まされたみたいね、蚊帳は夏の必需品、蚊が媒体する疫病も流行るから予防の意味でもね」
「日中はあまり働かないのも……」
「そう、一番暑い日中に天秤棒を担いで歩き回ったら熱中症確実だったでしょうね……」
「でも、両国では毎晩花火が上がった……」
「棟割り長屋って風通しも良くないから涼みに出かけたんでしょうね」
「師匠……」
「何?」
「なんか、あたし、江戸時代の良い所ばかり見てたみたい……」
「気が付いた?」
「はい、あたしが江戸の風情としてばかり捉えてたのは、夏を乗り切る工夫でもあったんですよね」
「そう、エアコンも冷蔵庫も、車もない時代だものね、今に生きるあたしたちには耐え切れないでしょうね」
「でも、それが良い所でもあった……」
「そう、夫婦の絆、家族の絆、人と人とのつながり、そう言ったものは確実に今より強かったでしょうね」
「暑くて辛いから工夫する、小さな喜びを見つけ出してそれを活力にする……師匠、もういっぺん手直しして来ます、書き上がったら聴いていただけますか?」
「もちろんよ、期待してるわ」

 大幅に書き直されたよしゑの新作にはつば女も深く頷き、よしゑがそれを高座に掛けると評判になった。
『江戸の夏を庶民がどうやりすごしていたのか、手に取るように見えて来る』と。
 
 ほどなく、よしゑは真打に昇進した。
 
「師匠、お疲れさまでした」
 真打となったよしゑ、寄席で高座から下りてくれば前座がそう言って出迎えてくれる。
 だが、まだ真打披露興行中、師匠と呼ばれるのも出迎えを受けるのも、なんとなくくすぐったい。
「これ、差し入れです」
「え? ガリガリ君?」
「今日は暑いですからね」
「うん、そうね……これ、もしかして……」
「はい、つば女師匠からです」
「師匠……聴いてくれてたんだ……」
「はい、先ほどまでこの楽屋で……この後他所で仕事があるからと仰ってサゲの少し前にお帰りになりましたが」
 今日はこのネタを演ると知っていて様子を見に来てくれていたのだろう……。
 よしゑはガリガリ君を押し頂いてから包みを破って齧った。
 ほんの少しだけだが、あの日齧ったガリガリ君よりも甘いような気がした。