傘がない
「あー、とりあえず最寄りの駅まで。駅からはすぐなんで、そこでお支払いしますよ」
「分かりました。では、行きましょう」
青年はバッグから自分の傘を取り出すと広げ、こちらを見た。
「お名前、なんていうんですか」
「僕は須藤っていいます。ほら、あそこ。のX大学に通っているんですよ」
「へえー」
二人は日も落ちて薄暗い路地の水たまりを避けながら進む。
須藤が斜め右方向の電線にかぶった茶色いキャンパスを指さす。
私もそこの卒業生なんですよと言おうとしたが、やめた。
自ら傷をえぐる理由もない。
「あの、傘を貸してるアルバイトって本当?」
本題に入ろう。少し歩いて冷静になったところだ。
この状況は異様といえば異様なのだから。
はい、と須藤はのんきな声で答える。
「とはいっても、それだけやってるわけではないですよ。もちろん」
ほら、と須藤はチラシを香奈に渡した。
「あー、逆に今時かも。こういうの」
要は、傘を貸すのに加えて広告をしているというわけだ。
じゃあ、待てよ。
「普通、広告渡されるなら無料でいいんじゃない、これも」
香奈が傘を指さした。
「そうなんですけど、まだこの商いは試験段階で、この広告も僕のオーナーがやってるカフェのチラシなんですよ」
「に、しても高いけどね」
「すみません…」
須藤は、はははと苦笑いした。
何秒か、何分か、経っただろうか。
人通りのない路地には二人の靴が雨を踏みしめる音と、降ってきた雨粒が傘と、地面にぶつかる音だけが響いた。
不思議とこの間に不快感はない。
ただ、また思い出させてしまう。
「ねえ、大学楽しい?」
楽しいんだろうなって思いながら聞いた。
人はしばしば、答えが解っているのに人に質問することがある。
それはきっと、自分を肯定してほしいんだろうなと思う。確認作業だ。
「うーん、別に。ほとんど興味ないんですよね。大学」
以外にも答えは陰鬱なトーンだった。
「そうなんだ」
なんで?と聞く気にはならない。
私は、さ
「私は、さ。楽しかったんだ。すごく」
香奈の心をせき止めていた何かが崩壊した。
さっき会ったばかりの青年に、裸の心をぶつけようとしている自分が、いた。
「きらきらしてた。毎日、友達と講義を受けて、たまーにさぼったり、アルバイト一日でやめたり、自由だった」
須藤は相槌を打たなかったが、真剣な目で見据えた。
「ちょっとしたことで憂鬱になったり、喧嘩したり。友達とか、彼氏とか。でも、それも含めて楽しかった。輝いてた」
だんだんと駅が見えてきた。
「大学2年生の終わりに、先輩が『来年就職だ』って言った時も、さ。思わなかった。実感が無かった。永遠に大学生でいられるって、もちろん思わなかったけど、さ」
二人の歩速は自然に遅くなった。それは香奈の心に対する優しさだ。
「そこからアッという間。ほんとに、あっという間。先輩が卒業したと思ったら、就職活動。それも夢中で駆け抜けて、気づいたら、今」
ついに二人の歩みは止まった。
交差点の奥にはいつもの、いつのまにか見慣れてしまった駅があった。
「今、私は空っぽ」
あればいいのに、タイムマシーン。
「タイムマシーンを待ってるの。突然、変だよね。ごめん。私の今のこの日常は、タイムマシーンが作られるまでの、消化試合」
誰にもこの悩みを言えなかった。久方振りに会った先輩も、友達も、みんな『今』を見てた。今を楽しんでたんだ。私の知らない友達、私の知らない思い出、私の知らないお店、私の知らない…
私だけが、取り残された。そう、思ってしまう。次第に連絡は途絶えた。私の物語は卒業式の記念写真で幕を閉じた。今のこの現実は、蛇足だ。めでたしめでたし。
「雨、止みませんね」
ふいに須藤が言った。
香奈は雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を須藤に向ける。
「うん」
「雨が降った時、どうしますか」
香奈は手にギュッと力を入れた。
傘。
「あなたは持ってるじゃないですか。傘」
ありがとうって思った。せき止められない思いを、安っぽい奇麗ごとで流さなかった。その厳しさと優しさに。
はなっから解けない式に、答えはない。不可能なことは不可能なのだ。
だとしたら、苦しむことが答えだ。
時に雨が降ったら、傘をさして、耐えればいい。
そうすればいつか…
香奈はふいに空を見上げた。混沌とした、鈍色の雲が見えた。
雨は、まだ止まない。
どれだけの水分を蓄えているんだろうか。
どれだけ降れば、満足するの?
どれだけ長い時間を誤魔化せば、止むのか。
天の気分か。私はどうしようもない。天気を変えることは。
それでも。
また、手に力が入る。
「その傘、気に入ってくれたようで、なによりです」
須藤が言う。
香奈は思わず微笑んだ。
「…うん」
「残念ですが、そろそろ返してもらいますよ。その子を」
駅の入り口に差し掛かって、須藤が言った。
「そうね。じゃあ、お金」
財布から千円を取り出して須藤に差し出した。
「ありがとうございます」
須藤は迷いなく受け取ると、ペコリとお辞儀した。
「最後に聞いていいかな」
「はい」
「あなたも、誰かに傘をさしてもらったの?」
そうなんでしょ。
「はい」
須藤はそうとだけ言うと、駅の出口へ、人をかき分けて、まだ雨が降る街へ消えていった。
「はあ…」
香奈は一言だけため息をつくと、少し微笑み、足を改札口へと向けた。
後で傘を二本買おう。
そう思いながら、前を向いた。