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優しさに感染した男
優しさに感染した男
novelistID. 61920
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傘がない

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 「あー、とりあえず最寄りの駅まで。駅からはすぐなんで、そこでお支払いしますよ」
 「分かりました。では、行きましょう」
 青年はバッグから自分の傘を取り出すと広げ、こちらを見た。


 「お名前、なんていうんですか」
 「僕は須藤っていいます。ほら、あそこ。のX大学に通っているんですよ」
 「へえー」
 二人は日も落ちて薄暗い路地の水たまりを避けながら進む。
 須藤が斜め右方向の電線にかぶった茶色いキャンパスを指さす。
 私もそこの卒業生なんですよと言おうとしたが、やめた。
 自ら傷をえぐる理由もない。
 「あの、傘を貸してるアルバイトって本当?」
 本題に入ろう。少し歩いて冷静になったところだ。
 この状況は異様といえば異様なのだから。
 はい、と須藤はのんきな声で答える。
 「とはいっても、それだけやってるわけではないですよ。もちろん」
 ほら、と須藤はチラシを香奈に渡した。
 「あー、逆に今時かも。こういうの」
 要は、傘を貸すのに加えて広告をしているというわけだ。
 じゃあ、待てよ。
 「普通、広告渡されるなら無料でいいんじゃない、これも」
 香奈が傘を指さした。
 「そうなんですけど、まだこの商いは試験段階で、この広告も僕のオーナーがやってるカフェのチラシなんですよ」
 「に、しても高いけどね」
 「すみません…」
 須藤は、はははと苦笑いした。
 何秒か、何分か、経っただろうか。
 人通りのない路地には二人の靴が雨を踏みしめる音と、降ってきた雨粒が傘と、地面にぶつかる音だけが響いた。
 不思議とこの間に不快感はない。
 ただ、また思い出させてしまう。
 「ねえ、大学楽しい?」
 楽しいんだろうなって思いながら聞いた。
 人はしばしば、答えが解っているのに人に質問することがある。
 それはきっと、自分を肯定してほしいんだろうなと思う。確認作業だ。
 「うーん、別に。ほとんど興味ないんですよね。大学」
 以外にも答えは陰鬱なトーンだった。
 「そうなんだ」
 なんで?と聞く気にはならない。
 私は、さ
「私は、さ。楽しかったんだ。すごく」
香奈の心をせき止めていた何かが崩壊した。
さっき会ったばかりの青年に、裸の心をぶつけようとしている自分が、いた。
「きらきらしてた。毎日、友達と講義を受けて、たまーにさぼったり、アルバイト一日でやめたり、自由だった」
須藤は相槌を打たなかったが、真剣な目で見据えた。
「ちょっとしたことで憂鬱になったり、喧嘩したり。友達とか、彼氏とか。でも、それも含めて楽しかった。輝いてた」
だんだんと駅が見えてきた。
「大学2年生の終わりに、先輩が『来年就職だ』って言った時も、さ。思わなかった。実感が無かった。永遠に大学生でいられるって、もちろん思わなかったけど、さ」
二人の歩速は自然に遅くなった。それは香奈の心に対する優しさだ。
「そこからアッという間。ほんとに、あっという間。先輩が卒業したと思ったら、就職活動。それも夢中で駆け抜けて、気づいたら、今」
ついに二人の歩みは止まった。
交差点の奥にはいつもの、いつのまにか見慣れてしまった駅があった。
「今、私は空っぽ」
あればいいのに、タイムマシーン。
「タイムマシーンを待ってるの。突然、変だよね。ごめん。私の今のこの日常は、タイムマシーンが作られるまでの、消化試合」
誰にもこの悩みを言えなかった。久方振りに会った先輩も、友達も、みんな『今』を見てた。今を楽しんでたんだ。私の知らない友達、私の知らない思い出、私の知らないお店、私の知らない…
私だけが、取り残された。そう、思ってしまう。次第に連絡は途絶えた。私の物語は卒業式の記念写真で幕を閉じた。今のこの現実は、蛇足だ。めでたしめでたし。
「雨、止みませんね」
ふいに須藤が言った。
香奈は雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を須藤に向ける。
「うん」
「雨が降った時、どうしますか」
香奈は手にギュッと力を入れた。
傘。
「あなたは持ってるじゃないですか。傘」
ありがとうって思った。せき止められない思いを、安っぽい奇麗ごとで流さなかった。その厳しさと優しさに。
はなっから解けない式に、答えはない。不可能なことは不可能なのだ。
だとしたら、苦しむことが答えだ。
時に雨が降ったら、傘をさして、耐えればいい。
そうすればいつか…
香奈はふいに空を見上げた。混沌とした、鈍色の雲が見えた。
雨は、まだ止まない。
どれだけの水分を蓄えているんだろうか。
どれだけ降れば、満足するの?
どれだけ長い時間を誤魔化せば、止むのか。
天の気分か。私はどうしようもない。天気を変えることは。
それでも。
また、手に力が入る。
「その傘、気に入ってくれたようで、なによりです」
須藤が言う。
香奈は思わず微笑んだ。
「…うん」
「残念ですが、そろそろ返してもらいますよ。その子を」
駅の入り口に差し掛かって、須藤が言った。
「そうね。じゃあ、お金」
財布から千円を取り出して須藤に差し出した。
「ありがとうございます」
須藤は迷いなく受け取ると、ペコリとお辞儀した。
「最後に聞いていいかな」
「はい」
「あなたも、誰かに傘をさしてもらったの?」
 そうなんでしょ。
「はい」
須藤はそうとだけ言うと、駅の出口へ、人をかき分けて、まだ雨が降る街へ消えていった。
「はあ…」
香奈は一言だけため息をつくと、少し微笑み、足を改札口へと向けた。
後で傘を二本買おう。
そう思いながら、前を向いた。


                                      
                        
作品名:傘がない 作家名:優しさに感染した男