元禄浪漫紀行(1)~(11)
第四話 おかねさんの正体
俺たちは暮れ方に駆け足で神田川らしき川の土手を離れ、そのまま日本橋の方角へ引き返していくらか歩いた。
目の前にある長屋の一戸の前には提灯が下がっていたけど、火は入っていない。
「ちょっと待ってな。今、御神灯をつけて、そしたらお前さんを家の中へ案内するから」
そう言っておかねさんは家の中に入っていき、火を灯したろうそくを持ってきて、提灯の中へ灯りをつける。するとそこへ、「常磐津 春風」と浮かび上がった。
「はるかぜ?」
俺がそう言うと、提灯を元に戻しておかねさんはきっと俺を睨む。
「“しゅんぷう”と読んでほしいね。ほら、入んな。どうやらまだ来てないようだけど、今日は稽古があるのさ。だからお前さんは見学ということにしといてやるよ」
「え、稽古…?ところで、この“じょうばんづ”ってなんです?」
「お前さんはいちいちひねくれた読み方をするんだねえ。これは“ときわづ”。あたしは常磐津の三味の師匠なんだよ」
「ええっ!三味線のお師匠さんなんですか!?」
江戸時代の三味線の師匠ともなれば、これは遊芸の一番見たいところじゃないか!
俺はそう思ってまた興奮したまま、中へ招き入れられた。
「お邪魔します…」
部屋の中はきちんと掃除が行き届き、四畳半ほどの広さしかないけど、十分居心地が良かった。
土間には水瓶と桶があったので、「これで井戸の水を貯めるんだな」と、俺は察した。他にも生活の道具らしい物たちがあったけど、俺にはよくわからなかった。
部屋の奥に面した壁には、三味線が二つと、小さなちゃぶ台が立てかけてある。それから、火鉢らしき物、細く背の高い棚と、向こう側の見えない衝立。あとは、神棚が吊ってある以外には何もなかった。
「やっぱり物が少ないんだなぁ…」
“江戸っ子は家財道具を必要最低限しか持たない”
それは、時代小説を書きたいなと思った時に調べたので、知っていた。しかし、ここまでとは。掃除機、洗濯機、果てはパソコンまで持っている俺たち現代人には、考えられない暮らしだ。
「何ぼさっとしてんだい。これから人が来るんだから、早くこっちへ来て着替えておくれな」
「あ、は、はい!」
おお、これが江戸時代の着物…!木綿だからかちょっとごわごわするけど、とにかく俺は今、江戸時代に居て、着物を着ているんだ!
俺はわくわくしながら衝立の影から出る。
「ど、どうでしょうか…?」
するとおかねさんは飲んでいたお茶を噴き出して、大慌てで俺に駆け寄った。
「まーったくこの人は!帯の締め方も知らないのかい?今までどうやって生きてきたのさ!」
俺は、おかねさんに手ずから帯を直してもらっていた。
「す、すみません…。それから、ありがとうございました」
「別にいいよ。これでよし」
おかねさんはまたあっという間にちゃぶ台の前に戻って、満足そうに俺を眺めていた。
ありがたいなあ。こんなふうに助けてもらえなかったら、俺は今頃、夜の真ん中で困り果てているだけだっただろう。
俺がそう思っている時、表の戸を誰かが叩いた。
「お師匠、いますかい」
その声はどうも、威勢が良い男性のようだった。「男性も三味線を習ったりするんだな」と思ったので、意外だった。
「栄(えい)さんかい、開いてるからお入りな」
すると、ガラッと勢いよく扉が開き、着流しに草履を履いた若い男の人が入ってきた。
「おろっ、誰だいそりゃあ」
「栄さん」と呼ばれた人は、背が高く目が吊り上がっていて、ずいぶんと細い人だった。なんとなく、喧嘩っ早そうなきびきびとした体の動きで土間から上がり、俺の斜め前に腰掛ける。
「ああ、この人はねえ、昼間日本橋を通った時に見つけたんだ。かわいそうに、道端で行き倒れてたんでねえ…あ、ところでお前さん、なんて名だい?」
俺はその時、はたと困った。
俺の名前は「矢島昭(やじまあきら)」だ。しかし、江戸時代に「あきら」では不自然だろう。そこで俺は、名乗るのが恥ずかしい振りを装って、ちょっと考え込んでいた。
…よし。これでいこう。
「えーっと…秋兵衛と、言います…」
また怪しまれやしないだろうか。俺はそう思ってちょっと緊張したけど、「栄さん」は、さして興味もない風に「へーえ」と相槌を打った。
「秋兵衛ねえ。珍しい名じゃないかね」
「それで、拾ってやったはいいが、どうすんだい師匠」
心配そうに栄さんはそう言う。
「まあ、あとで考えるさ。さ、お茶も飲んだし、おさらいから始めるよ。いつも通り、あたしのあとにね」
いよいよ俺はこれから、江戸時代の三味線の稽古を見るんだと思うと、少し緊張した。
おかねさん、いや、“春風師匠”は、三味線を抱えて調子を合わせ、一息深く息を吸うと、撥を振り下ろした。
作品名:元禄浪漫紀行(1)~(11) 作家名:桐生甘太郎