世界終了
目が覚めると、世界が終わっていた。
瓦礫の下から這い出ると、全身に鈍い痛みがはしった。打撲だろう。腰の周辺から足首にかけての下半身全体が重く、歩くのに苦労したが、動けないほどではない。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。テーブルや椅子のほとんどは瓦礫に埋もれ、パソコンが床で煙を上げていたが、教壇とボードはかろうじて原型をとどめていた。どうやらここは大学構内らしい。
窓は一枚残らず粉々に割れ、ガラスが床に飛び散っていた。圧力で歪んだ窓枠にしがみついて外を見下ろし、愕然とした。
まさに地獄の光景だった。見慣れた東京都内の景色は、そこにはなかった。建築物のほとんどは壊滅し、更地同然だった。あちこちで火事が起き、炎に包まれている。空がどんよりと曇っているせいで、煙とほぼ同化して、黒ずんでいる。あたりは静まり返っていて、ときおりガスが爆発する音が聞こえる以外は、戒厳令や警報どころか、ひとの声もしない。
茫然とした状態からすぐには立ち直れなかった。慌ててダウンジャケットのポケットをさぐったが、しまっておいたはずの携帯電話は消えていた。ダイバーズウォッチも壊れてしまったのか、動かない。
途方に暮れ、立ちすくむ。足に力が入らず、座り込んでしまいそうになったが、上からの圧力に大きく撓んだ天井から埃が落ちはじめていた。この校舎も、長くはもたないだろう。
とにかく、ひとを探さなくてはならない。ほかに生き残っている人間が構内にいるはずだ。真っ先に浮かんだのは、半月前に婚約した恋人の顔だった。
「真理亜!」
しんとした構内に、叫び声が反響する。一歩踏み出すたび、足元の瓦礫がぐらついた。限界に近づいているらしい。できるだけ早く外に出なくては。おれは慎重に階段を降りていった。
「おい、だれかいないか」
返事はない。上よりはましだが、一階もやはり正視に耐えない荒れようだった。おれはほぼ回転しながら周囲を捜しまわった。
「だれか……真理亜!」
背後で微かに物音がして、おれは振り返った。瓦礫を押し退けて進む。エレヴェータのわずかな窪みに、真理亜がうずくまっていた。
「真理亜!」
手を伸ばすと、真理亜は甲高い悲鳴を上げて暴れた。めちゃくちゃに叩かれながらも、おれは必死になって真理亜の肩をつかんだ。
「落ち着け。おれだよ」
両側から顔を挟み、強引に視線をあわせる。恐怖に見開かれた真理亜の目がようやく焦点を取り戻し、おれを見つめた。
「稔之……?」
何度も頷く。真理亜は渾身の力ですがりついてきた。小刻みに震える背中をさすってやっているうちに、おれも徐々に正気に戻っていった。
「どうなってるの。いったいなにが起きてるの」
「おれにもわからない」
泣きじゃくる真理亜の頭を抱きながら、目をはしらせる。ほかに生きている人間はいなさそうだった。
「なにかおぼえていることはないか」
真理亜は子供のように大きく首を振った。期待してはいなかった。おれにもやはり、こうなる前後の記憶が欠如している。
外的ショックから一時的な記憶喪失になることは考えられるとしても、ふたり同時というのは、いくらなんでも不自然だ。考え込んでいると、真理亜が不安げに見つめてきた。
「ねえ、ひょっとして、テロじゃないの」
「まさか」
笑ってみせたが、自信はなかった。
「じゃあ、なんで……」
真理亜が言葉を切る。頭上で軋むような音がして、埃が舞い落ちてきた。天井が落ちかけている。
「とにかく、出よう。ここにいると潰される」
まだ腰が抜けている真理亜を支えながら、建物を出た。背後で音を立てて崩れていくコンクリートの塊を眺めながら、おれたちはぼんやりと立ち尽くした。
「ほかのひとたちは?」
「わからない。だれとも会わなかった」
「これからどうするの?」
ひっきりなしにつづく真理亜の質問に、おれは頭を抱えた。
「ねえ、稔之……」
「ちょっと黙っていてくれ」
たちまち真理亜の表情が強張る。おれは慌てて顔を上げた。
「悪かった。おれも混乱してるんだ」
遅かった。真理亜は肩を震わせてまた泣き出した。お嬢様育ちの彼女が、こんな事態に対応できるはずがない。
「真理亜、真理亜。頼むから、泣かないでくれ」
「パパとママを探さなきゃ」
「そうだな。その前に警察を……」
「パパとママが先よ!」
「わかったよ。お義父さんたちを探す。さあ、行こう。しっかり歩いて」
おれの腕に肩を抱かれ、真理亜はよろけながら歩き出した。将来妻になる女を護らなければならないという使命感が、おれの体に力を漲らせた。
真理亜の実家である豪邸は、まさに見るかげもなかった。泣き喚きながら両親を捜す真理亜を見ていることができなかった。
「もういいだろ、真理亜」
「よくない!」
腕をつかもうとした手を振りほどかれた。
「瓦礫のなかに埋もれてるのかも。助けてあげないと……」
「きっとどこかに避難してるよ」
自分でも説得力のある言葉だとは思えなかった。大学からここへくるまでの間、猫一匹出会うことはなかった。真理亜もわかっているのだろう。嗚咽を漏らし、その場にしゃがみこんだ。
おれたちは本当に世界にふたりきりになってしまったのだろうか。丸まった真理亜の背中を見下ろしながら、おれは絶望をおぼえはじめていた。
しゃくりあげていた真理亜が突然立ち上がった。眉間を指圧していたおれは、慌てて彼女に近寄った。
「どうした」
「声がした」
「声?」
周囲には瓦礫と炎しか見えなかった。
「気のせいじゃないのか」
「そんなことない。ほんとに聞こえたの!」
「しっ」
真理亜の叫び声に混じって、男の声が確かにした。義父ではない。もっと若い声だ。
「能見」
振り返った。欠けた門に寄りかかるようにして、男が立っていた。目立たない男だ。すぐには思い出せなかった。
「伊勢崎か?」
「知り合いなの?」
真理亜が見上げてくる。力強く頷いた。
「機械工学科の伊勢崎だ。ゼミでいっしょだった」
罅の入った眼鏡を持ち上げて、伊勢崎が真理亜に挨拶をする。
「無事なのか」
伊勢崎は小さく頷いた。埃と煤で顔を汚してはいるが、取り乱した様子はなかった。ほとんど言葉を交わしたことがなく、友人とはいいがたかったが、生きている人間を見ただけでほっとした。真理亜も同じ気持ちらしい。彼のようながり勉とはろくに目も合わせないはずが、自分から強く手を握りしめた。
こんな状況で嫉妬心が湧くはずもない。おれは伊勢崎の肩をつかみ、抱擁した。
「会えてよかった。生き残っている奴はいないかと思っていたんだ」
「おれもだよ」
「やっぱり、だれにも会っていないのか」
「怪我人にすらね」
どことなく意味深長ないいかたをして、伊勢崎は崩れた豪邸を見回した。
「変だと思わないか。これがテロにせよ自然災害にせよ、死体や虫の一匹も見当たらないなんて」
声を上げそうになった。確かに、そのとおりだった。真理亜が青褪める。
「やめてよ。死体なんて」
「きみたちは、なにかおぼえていないの」
伊勢崎は真理亜を無視して、おれに尋ねた。
「いや。気づいたら、もうこの状態だった」
「そうか……」